すれ違いの狭間で (X)





「・・・・・・」

曹操は静かに目を開いた。

辺りはまだ暗い。隣には誰もいない。彼一人だった。

数時間前までは愛しい人を抱いていたが、今はいなかった。

毎夜、自分の欲望を抑えられずにはいられなかった。

寄せて返す波のように、襲ってくる苛立ちと愛憎。

それを隠すために欲望という形で愛しい者――司馬懿を抱いた。

「・・・・・・・・・」

自己満足。傍からみれば、そう取られるだろう。

司馬懿の気持ちなど、関係なかった。

ただ、曹操は彼を抱くことしか、出来なかった。

字を相変わらず、呼ばせてくれなかった。

いや、呼ぶな。と条件を出した。

曹操はそれを承知した。

自分は司馬懿の身体を手に入れることしか出来なかった。

いや、これから先もそうだろう。とあの時感じた。

予感めいたものだった。

ならば、抱くことで、曹操は彼を愛そうと決めた。

それで、彼が手に入るなら・・・・。

しかし、最近の司馬懿は暗い。

表情に何処か影がちらついている。

そんな表情など、曹操は見たくない。

曹操の前だけ、そうなのだろう。

そんな思いさえ、曹操の脳裏に落ちる。

だが、身体の中から沸き起こる欲情は

日に増して酷くなる一方だった。

「そんなに、わしに抱かれるのが嫌なのか・・・?」

曹操は暗い部屋の中でボソッとつぶやいた。

情事が終わると、司馬懿は曹操のそばから、いなくなる。

ただ、抱かれるためだけに、

彼の所へ通う情夫のような存在に堕ちていった。

それが、曹操には気に入らなかった。

最初の頃は息子の曹丕に取られまいと、意地を張っていた時期もあった。

だが、今は違った。司馬懿が好きだった。そばにいて欲しい。何よりも、笑って欲しいと思った。

「司馬懿・・・・お前は息子の前では・・・・笑っていたのか・・・・?」

誰もいない部屋の中で曹操は独りつぶやく。

曹操は唇を噛みしめると、寝台から身を起こした。

全裸の上から服を羽織ると、曹操は静かな声で典韋を呼んだ。

ドア越しに気配が現れた。感じ慣れた気配に曹操はドア越しに近づく。

「元譲を呼んでくれないか?」

「しかし、もうお休みになられているのでは・・・?」

典韋の言葉を遮るように、曹操は一言、心配ない。と言った。


数分後、ドアのノック音が響き、戸が開いた。姿を現したのは夏侯惇、だった。

「孟徳」

優しい瞳。曹操の一番の理解者でもあり、身内だった。

「すまんな、呼び出して」

「気にするな。淋しくなったら、俺を呼べと言っただろう?」

「・・・そう、だったな・・・」

曹操は苦笑すると、夏侯惇を寝台へと誘った。

そこは数時間前まで、司馬懿と抱き合っていた場所。

そんな温もりさえ、残る寝台であっても、夏侯惇は何もいわなかった。

二人の関係がズルズルと続いていた。

曹操はただ、司馬懿と抱き合っても満たされない想いを夏侯惇に委ね、

夏侯惇は曹操を抱きたいという欲求にその身を任せていた。

夏侯惇の気持ちを曹操は知っていたし、

お互いの身体を重ねることによって、その満たされない想いを

本物ではないにしろ、満たしていた。

「孟徳・・・・」

羽織った服の間から、曹操の紅潮した肌が見え隠れする。

夏侯惇はそっと、曹操の身体を優しく包み込んだ。

「暖かい・・・」

司馬懿の時とは違う安らぎがそこにはあった。

互いに言葉は必要ない。長い付き合いで何を思っているのか分かり過ぎているから。

夏侯惇は曹操の字を呼び、抱きしめる。

曹操も黙って、彼に身を委ねていた。

唇が何度も何度も重なる。二人の存在を確かめるように、何度も――。

そして、二人の身体が重なり合った。



「子丹、少し付き合え」

曹丕の部屋に曹真が訪れていた。

曹丕は少し、深いため息を吐くと命令口調で言った。

「曹丕さま、顔色がよろしくないようですが・・・?」

「大丈夫だ。今日は何だか、外へ出たい」

曹丕は先週まで、病床にふけっていた。

やっと、体力が回復したばかりなのだ。

曹真は躊躇したが、街までなら。と念を押した。



「外は気持ちがいい」

曹丕は身体を伸ばすと少し笑みをこぼした。

「室内にこもりっきりでは、身体によくないでしょう」

曹真は久しぶりに見る、曹丕の顔をみて、少し安心していた。

彼は司馬懿と曹丕の関係を知っている一人だった。

以前は曹丕を巡って対立さえ、していた時期があったが、

今では、曹真が身を引き、司馬懿とは友人として、曹丕とは兄弟として、いい関係を築いている。

しかし、司馬懿の最近の行動にいささか、腹を立てていた。

あの日、司馬懿が曹丕の元を去ったとき・・・・。



『どうして、彼の側から離れるのですか?』

曹真は司馬懿に向かって、問い詰めていた。

司馬懿が曹丕から離れて、曹操の元へ行くといったから。

司馬懿を巡っての曹丕と曹操の親子のことは

すでに曹真の耳にも入っていた。

それでも、司馬懿は曹丕の側を離れないだろうと

曹真は信じてやまなかった。

それを、裏切られた形になった。

『・・・曹真殿・・・私は・・・曹丕さまを愛してます』

『なら・・・何故?』

司馬懿はフッと笑みをこぼし、そして顔を和らげると。

『身体を重ねるだけ、側にいるだけが・・・全てではないということです・・・・』

『曹丕さまは・・・・悲しみます』

曹真はその場を去ろうとする司馬懿を何とか留まらせようとした。

『・・・曹丕さまを・・・頼みます。曹真どの・・・・』

結局、司馬懿はその場を去っていった。

『司馬懿どの、私は貴方を軽蔑しますっ!!!』

曹真は司馬懿の後ろ姿に向かって、そう怒鳴っていた。



それでも、そのときの司馬懿の柔らかい表情が忘れることが出来なかった。

そして、司馬懿が言った言葉の意味さえも・・・。

それ以来、曹真は司馬懿と会うことはなかった。会いたくないという気持ちが強かったが、

どこかで、二人には幸せになって欲しいと思っていた。

たまに見せる曹丕の寂しそうな表情を見るたびに、曹真の心は痛んだ。

司馬懿を止めることが出来なかった、という思い。

「どうした、子丹?」

突然、名を呼ばれて曹真は我に返った。

曹丕の白い肌がほんのり赤く染まっている。

「曹丕さま・・・・」

フワリと曹真は曹丕を抱きしめた。

「え、子丹?」

曹丕は突然のことで何が起こったのかわからなかった。

曹真は優しく、曹丕をだきしめていた。

「たとえ、殿を裏切ることになっても・・・私は――」

――貴方の味方です――

曹真は曹丕の耳元でそっと、ささやいた。

曹丕はそんな曹真の気持ちに答えるかのように、笑みをこぼした。




つづく