すれ違いの狭間で (W)





「子桓さま・・・」

司馬懿は前日から、倒れた曹丕のそばから離れずにいた。

数日間、安静にすれば、治ることなのに。

ずっと側にいて、曹丕の少し冷えた手を握っていた。

――子桓・・・様――

無意識のうちに司馬懿の両目から涙が零れ落ちた。

それには彼自身、驚いた。

失いたくはない――

今はそう思う。

好きだからとか嫌いとかでもなく、そばにいたいとかでもなく、

ただ、失いたくない。

今、司馬懿の中にある気持ちはその想い、一つだけ。

零れた涙が握っていた曹丕の手に落ちて濡れた。

「子桓さま・・・・」

そっと、唇に手の甲を引き寄せて、軽く触れる。

少し冷たい肌が司馬懿の心を突き刺した。

「・・・・子桓・・・さま・・・・」

今度はそっと、唇を重ねた。

軽く触れるだけのもの。それでも司馬懿は全ての想いを込めた。

曹丕は起きる気配もない。

司馬懿はそのまま、静かに部屋を後にした。


「司馬懿どの」

顔を元に戻して、廊下を歩く司馬懿に声をかけた人物がいた。

張コウである。

男でありながら、美しいものを好み、優雅さを戦においても忘れない将である。

その容姿とは裏腹に頭の回転はいい。

司馬懿は何も言わず、通り過ぎようとしたが、

「貴方は・・・それでよろしいのですか?」

「・・・何の話だ。私は忙しいのだ」

司馬懿は一瞬、心が見透かされていると思った。

あまり、長いするべきではないと、彼は判断した。

「泣いた貴方の顔も・・・美しいですよ」

張コウは司馬懿に近づくと、涙の跡を辿るように、頬に指を近づけた。

「!!」

司馬懿は反射的にその指を振りほどき、キッと張コウを睨んだ。

「おやおや、怖い顔。美しさもそれでは台無しですよ・・・」

張コウはそんな司馬懿に気にせずに、いつもの口調で優雅に微笑んでいた。

「張コウ殿。そう思うのであれば、私にちょっかいを出すのをやめて頂きたい」

司馬懿は冷静に言葉を並べてみたが、いつも以上に苛立ちを感じていた。

あまり、張コウには会いたくはない。見た目以上に勘が鋭い。

特に色恋沙汰において・・・だ。

何処の派閥にも属さず、ひたすら傍観者でいる男。

一語一語見透かされているような気分になる口調。

「司馬懿どの。相談があれば、いつでも乗りますよ。私は美しい人の味方ですし・・・」

張コウはそこまで、言うと司馬懿の手を掴むとその甲に唇を落とした。

「――っ!!」

突然のことで、司馬懿の反応が遅れた。張コウはニコニコしながら、その手を離した。

「それに・・・貴方のこと・・・嫌いではありませんから・・・」

張コウは睨みつける司馬懿を他所に、笑みを浮かべて、その場を立ち去っていった。

その行動に司馬懿は怒りよりもあきれ返っていた。


司馬懿と張コウが廊下で会話をしていた時間、曹丕はふと、目を覚ました。

「仲達?」

目を覚ますと、いたはずの男の姿はなかった。

唇と手の甲には暖かい感触が、辺りには司馬懿がいた残り香が漂っていた。

曹丕は指を唇に重ねると、静かに目を閉じた。

――仲達・・・行ってしまったのか――

身体に残る、愛しい人の感触だけが、曹丕を包み込んでいた。

だが、それでも曹丕は涙を流すことはなかった。

彼の気持ちを知っていたから――

「仲達・・・」

その字を呼ぶたびに、曹丕の心が震えた。

今の曹丕には広すぎる部屋は自然と暗い影を落とし始めていた。



「殿」

夜更け、司馬懿が曹操の部屋を訪れていた。

決意に満ちた目。

落ち着いた表情。

司馬懿は曹操の前に歩み寄ると、着ていた服を脱ぎ始めた。

「私を・・・抱いてください」

司馬懿の白い肌をした肩口が露になる。

「・・・・もう・・・後戻りは出来ぬぞ・・・・」

曹操もその司馬懿の決意を何となく感じ取った。

二人の間を妙な緊張感が漂った。

「・・・もう・・・戻れません。いえ、終わったこと・・・です」

曹操に抱かれることを選んだ時から、覚悟していた。

本当は曹丕を曹操よりも愛していたこと。

初めから、自分の気持ちに気づいていたこと。

それでも・・・司馬懿は曹操を選んだ。

「本当に・・・いいのだな?」

再び、曹操が問う。

――はい――

静かな沈黙が辺りを包んだ。

「ただ、一つだけ・・・条件があります――」


――字だけは呼ばないで下さい――


ただ。

字だけでも、つながっていたい。

彼が仲達≠ニ呼ぶように。

司馬懿が子桓さま≠ニ呼ぶように。

二人だけの唯一のつながり――

他の誰にも字を呼ばせない。

曹丕が司馬懿の字を呼ぶと心が震えたように、

司馬懿もまた、曹丕の字を呼ぶたびに、心が震えていた。

たとえ、離れていても・・・・身体がつながっていなくても・・・

それだけは犯されたくない領域だった――



――子桓さま、私はいつも・・・貴方と・・・・心でつながっていたい・・――





つづく