すれ違いの狭間で (V)




――笑うのか――

曹操にふと、言われた言葉に司馬懿は改めて、

わが身を振り返ってみた。

「・・・・・」

笑ったことがあるのだろうか・・・?

自分でも思い出せない。

分からない。

そんなに意識したことはなかった。

「フッ・・・・」

司馬懿は笑みを浮かべた。笑うとはこういうことだろうか?

何かが違うような気がしたが、自分には縁がないものと気づいた。


ある朝廷の最中、曹操が臣下の報告を聞く。

その場に当然、司馬懿も夏侯惇もいた。

「失礼しますっ!」

護衛兵が息を切らせてドッと入ってきた。

その切羽詰った勢いにその場にいた全員がその兵に視線を注いだ。

「何だ?」

曹操が静かに問いかけた。兵はその場に軽く会釈すると。

「先ほど、曹丕さまが寝所において、お倒れになられました」

そこにいた全員が驚き、そしてザワザワと騒ぎだした。

曹丕は曹操の次男で、長子の曹昂が戦死したため、

正式に決定された跡継ぎであった。

その曹丕が倒れたというのだ。

当然、司馬懿も曹操もショックを隠しきれなかった。

そのまま、朝廷はお開きになり、早々と曹操と夏侯惇、司馬懿は

曹丕の部屋へと向かった。


寝台で横になる曹丕は静かな寝息を立てていた。

そばには医者が立っていた。

「丕の容態は?」

医者は曹操の姿を見ると一礼して、容態をポツリポツリと語る。

「少々、気も身体も衰えております。精神的なお疲れから出たようですので

数日の療養が必要です。しかし・・・精神的負担を軽くしない限り、

以後、こういうことが続くかと思われます」

「・・・精神的な疲れ・・・か」

曹操は独りぼやきながら、自分の後ろにいる司馬懿の方にチラリと視線を送った。

司馬懿は冷静な顔をしてはいるものの、相当なショックを受けているらしい。

顔が蒼白になっている。

「司馬懿、しばらく丕のそばにいよ」

「え?」

その曹操の突然の一言に司馬懿は驚いた。

曹操はその司馬懿の驚き顔を見ながら、クスッと笑みを浮かべた。

「心配なのだろう。わしの気が変わらぬうちに・・・そばにいよ」

司馬懿は一礼して、曹丕のそばに歩み寄った。

曹操はそれを見ずに、静かに部屋を出た。


廊下に夏侯惇が立っていた。と、いうより曹操を待っていたようだ。

「孟徳、いいのか。あれで・・・」

曹操が独りで部屋から出てたのを見て、夏侯惇は中の状況を悟ったようだ。

「・・・・ほかには思いつかなかった・・・。それに、あんな司馬懿を見たくない」

曹操は苦笑いを浮かべ、廊下を夏侯惇と共に歩いていった。

「孟徳・・・辛い時は・・・俺を呼べ」

その夏侯惇の言葉に二人は立ち止まり、二人は互いの真意を伺うように

じっと、見つめ合っていた。

「・・・考えておく」

二人はそのまま、他に言葉を交わすことなく歩いていった。


「・・・子桓さま・・・」

医者を含め、誰も居なくなった部屋の中で司馬懿は曹丕のそばに腰掛け、

手を両手で握りしめていた。

その曹丕の手は最後に握った時よりも何故か小さく感じた。

久しぶりに触れる、その暖かい感触に司馬懿は涙が零れた。

「・・・仲達・・・来てくれたのか・・・?」

司馬懿の耳には小さく聞こえたが、聞きなれた声が響いた。

間違いなく曹丕の声だった。

「子桓さま!」

司馬懿の顔を一瞬にして、笑みがこぼれた。

「・・・お前の顔・・・久しぶりにみる・・・ずい分痩せたな。仲達・・・」

曹丕は軽く笑みを浮かべ、冗談を言った。

「・・・子桓さまほどでは・・・ありません・・・・」

司馬懿は涙でまともに曹丕の顔をみることは出来なかった。

「仲達・・・触れても・・・いいか?」

司馬懿の返事も待たずに、曹丕は握られた手を司馬懿の唇にそっと、触れた。

柔らかい感触と震えている唇が手から身体へと伝わっていく。

その感触が、曹丕はまだ、司馬懿のことが好きだという想いを呼び起こさせた。

「・・・仲達・・・今だけは・・・そばにいてくれ・・・」

――はい――

司馬懿と曹丕はしばらく、見つめ合ったままだった。


夜が更けても、曹操は眠れずにいた。

曹丕のそばに置いてきた司馬懿のことが気になって、とても眠れそうにもなかった。

こうなる事は分かりきっていたはずだった。

自分が苦しくなることも知った上で、あえてそうした。

今、司馬懿は曹丕に抱かれているのか、そうではないのか。

独りでいるとそんな考えしか浮かばない。

そばに置いていても、手が届きそうな距離にいるのに、

曹操はいつも司馬懿が遠くにいるように感じていた。

身体だけが司馬懿と曹操をつないでいる。

あの二人を見ると、そう思えて、自分が情けなくなってくる。

曹丕に対して、芽生えた憎しみの感情が日々、大きくなっていく。

それでも、何処かで抑えている。

跡取りなのだ。息子なのだ。たかが、一人の人間に固執しなくてもいい。

そう思いこむ。それでも・・・曹操は司馬懿が好きだった。

そして・・・司馬懿は・・・やはり遠い場所にいた・・・。

不安だらけの・・・心。

ふと、曹操は思い出した。

夏侯惇の言葉を・・・。



「元譲・・・・」

少し、息の荒くした曹操がそばに居る男の名を呼ぶ。

夏侯惇は手の中に曹操の中心たる存在を優しく握り、

口に含むと愛撫をした。

その刺激が曹操の身体を震わせ、荒い息と声を出させる。

「・・・・孟徳・・・どうしたい?」

夏侯惇は愛撫をしながら、曹操に意地悪な質問をした。

「・ぅふ・・ん・・・わしを・・抱きたい・・・のだろう、元譲・・?」

曹操は身体を過剰に反応させながら、夏侯惇に小生意気に笑みを落とす。

夏侯惇は何も返事せずに、愛撫することに専念していた。

「・・・・お前の気持ちには気づいていた。わしを抱くがいい」

夏侯惇はその言葉を聞くと、顔を上げた。そして、わかった。と返事をするように

口元を和らげた。

――孟徳・・・ずっと・・・見ていた――

夏侯惇は曹操の身体を深く突いていた。

そのたびに二人の身体は高ぶる。

「孟徳・・・忘れさせてやる・・・お前を・・・救ってやる・・・」

夏侯惇の動きは激しくなり、曹操は彼に身体を委ねていた。

「ぅふ・・・ん・・・あ・・・げ・・・元・・・譲・・・」

曹操の目の端から涙が溜まり、それでも身体は欲求を満たすように

その悦に身を任せていた。

そして。

二人は同時に絶頂を迎えた。


隣で静かに眠る夏侯惇を見つめながら、曹操は心が痛んだ。

満たされない思いを夏侯惇に委ねた。

――元譲・・・・お前では・・・代りになれぬ――

曹操は夏侯惇の想いの重さに自然と涙が流れた。

――司馬懿・・・お前は・・・笑うのか――

曹操はしばらく、その身を窓から見える三日月に預けていた。


つづく