すれ違いの狭間で (U)






「ええぃ〜忌々しいっ!!」

司馬懿は陣営で筆を床に投げ捨てた。

誰が、と言うわけではない。自分自身に腹が立っているわけで。

そもそも、対蜀戦のほとんどが司馬懿が総大将であって、指揮を取っている。

そんなことになったのは、単なる曹操が臥竜こと、諸葛亮孔明の才を

ひどく気に入ったという。

ならば、という負けず嫌いな曹操が、考えたのが、司馬懿と諸葛亮との智謀同士を競わせたい。

ただ、それだけの・・・曹操が面白そう≠セからという理由から、

必然的にそうなっただけ。

司馬懿自身、そんなものはどうでもよかった。

しかし、魏に攻め込んでは撤退し、そして、また攻め込む。

そんな、諸葛亮のやり方に半分、うんざりしていた。

司馬懿にとっては、撤退させるだけでよかった。

曹操もくだらないことを考えることだから、大して、深刻に考えていないのかもしれない。

それでも、一箇所に群がる虫のようにウザく感じていた。

段々、何処かで大打撃を食らわせてやりたい。本気でそう思ったりするが。

相変わらず、諸葛亮の陣形には隙がない。

あったとしても、罠だったり。

相手の手の内を司馬懿と諸葛亮は互いに分かっているぶん、

なかなか、手が出せないでいるのも事実だった。

そんな時、司馬懿へ諸葛亮からの手紙が送られた。


【司馬懿どのへ】

【一度、お会いしたいと思います。好意的なお返事をお待ちしております】

【諸葛亮孔明】


こんなような内容である。

二人はじかに面と向かってあったことはない。

戦場で遠くからその存在を見た、確認した類のことしかなかった。

司馬懿も一度、会って見たいという衝動にかけられ、無意識の内に手紙の返事を書いていたりする。

冷静に戻って、何度それを破り捨てたことか・・・。

「フッ、敵である大将に会いたいなどと・・・・」

そんなことが司馬懿を妬む人間に知られれば、話の内容を何十倍に膨らませてしまう可能性があり、

たとえ、司馬懿が曹操のお気に入りでも手に負えなくなる。

当然のごとく、司馬懿を妬む人間は隠れたところでたくさんいると思われた。

半分は司馬懿の性格による所が多い。

彼も周りの反応も自分に対する接触も敏感に感じ取っているわけで、

なるべく、自分の行動には最善の注意を払っていた。

それでも。日に増して、会いたいという気持ちは大きくなるばかりだった。


「――本気で返事を頂けるとは思いませんでした」

数日後、司馬懿は返事を出した。

それも無意識のうちに。それでも会わなければいいものを、こうして会う。

司馬懿自身不思議だった。

「一度くらいは大将を拝んでやろうと思っただけだ」

とっさの嘘。いや、半分は当てはまっている。

だが、もう半分は司馬懿も理解できない気持ちだった。

「変わってませんね。あの時と・・・」

諸葛亮は微笑んで、か細い声で静かに言った。

「あの時・・・?」

司馬懿はその言葉に訝しげに反応を示した。

「覚えてませんか?幼少のころ、町でぶつかって、川に落ちたではありませんか」

司馬懿の脳裏に幼いころの記憶が引っ張り出される。

数分もしないうちに、司馬懿の頭に怒りがこみ上げた。


幼少の頃、兄の司馬防と出かけた時である。

兄とはぐれ、どうしようかと悩んでいたとき、事件は起こった。

後ろから、猛スピードで走るモノがいた。

馬ではない。人だった。

互いに避けた。だが、不意に肩先がぶつかった。ちょこん、と・・・。

しかし、相手は尋常ではない速さ。

その勢いに押された、幼少の司馬懿は思いっきり吹っ飛ばされて、そのまま、川へと転落してしまった。

さらに、運悪いことに、そのぶつかった相手に助けられたという思い出だった。


「あの時のぶつかった奴か?」

「あの時は少々急いでおりました。大事に至らなくて安心しました」

諸葛亮は悪気のないニコニコした表情で言葉をつむぐ。

「誰のせいだ、誰のっ!!!」

司馬懿はその諸葛亮の態度にすごく不機嫌になっていた。

そんな司馬懿に、諸葛亮はそっと、司馬懿の手を取る。

「本当にあの時からずっと心配だったのです」

じっと、憂いのある瞳が司馬懿を貫く。思わず、司馬懿はドキッとしてしまった。

司馬懿の身体が熱を帯びる。

身体の芯から熱くなった。

触れている手が熱い。そこだけが熱が集中していた。

「司馬懿・・・殿」

諸葛亮に名を呼ばれただけでも、司馬懿の身体が歓喜に震えるのが分かった。

強い意志の光を瞳の奥に秘めた、諸葛亮の双眸がじっと、司馬懿を見つめる。

「・・・諸葛・・・亮・・・・!?」

不意に、諸葛亮が司馬懿を抱きしめた。

一気に司馬懿の身体は高揚し、顔が紅く染まった。

困惑気味の司馬懿をよそに、諸葛亮は静かにそのキュッと引き締まった司馬懿の唇に

自分のそれと重ね合わせた。

触れるだけの・・・優しい口付けだった。

「ずっと・・・貴方を想いつづけていました」

諸葛亮のその瞳に司馬懿は何も言えずにいた。

ただ、それだけでも身体が過剰に反応する自分が恥ずかしくて、彼を直視できなかった。

「・・・・そうでしたね・・・貴方は曹操の――」

諸葛亮は思い出すように、弱々しく力なく言った。

諸葛亮も曹操と曹丕との関係を知っている。それは魏に放っている間者からの報告。

諸葛亮はそれ以上、何も言わず、そのまま、別れた。

別れ際に見せた諸葛亮の悲しい表情が司馬懿の胸を刻んだ。



「父上・・・」

曹操の執務室――に、息子の曹丕が訪ねてきた。

それを見て、曹操は素直に珍しいと思った。

しばらく振りにあった息子の顔色はあまりよくなかった。

その原因は曹操は知っていた。

曹丕が訪ねてきた用件も悟っている。しかし、曹操からは何も言わない。

相手が言うのを待つ。しかし、互いに顔を見合わせるだけで何も言わなかった。

「・・・司馬懿を奪ってみるか?」

ふと、曹操の口から零れる言葉。別に聞きたかったわけではない。

無駄に過ぎる沈黙にしびれを切らしただけ。

二人とも、口に出さずとも言いたいことを悟ってしまう。曹操はその空気に息が詰まった。

「父上は・・・本気なんですか・・・」

「・・・本気だ・・・」

曹丕の顔が強張った。それも一瞬だけ。

その後、キュッと顔を引き締めると。

「父上、私は仲達を信じています」

自身満々に、曹丕は告げた。そして部屋を出て行こうとした。

「丕よ・・・お前は・・・司馬懿の笑顔を見たことがあるか?」

曹操はそう、いって呼び止めたが、彼の喉がなった。

曹丕は振り向かず、無言のまま。部屋を出て行った。

曹操は曹丕が出て行った戸をしばらく見つめていた。

曹操の問いに何も言わなかった息子に、少しばかり曹操は安堵していた。

そんな自分に彼は苦笑をした。

――お前は・・・笑うのか・・・――

曹操は静かに部屋のなか、独りごちた。




つづく