すれ違いの狭間で (T)
「どうして・・・なのだ・・・」
曹丕は寝台の上に横になっていた。
その両目は何もない天井に向けられていたが、彼の心はそこにはなかった。
曹丕はつい数週間前まで、隣にいた側近・・・司馬懿のことを想い出していた。
曹丕は司馬懿のことが好きだった。
字を仲達≠ニいった。
父の曹操から、世話係を任された司馬懿と初めて会った時、
その司馬懿の字にすごく魅かれた。
司馬懿の同意も求めずに、すぐに司馬懿のことを曹丕は仲達≠ニ字で呼んだ。
馴れ馴れしいと思われたのかも知れないが、司馬懿は何も言わずに、
字で呼ばれることも嫌がることはなかった。
ただ・・・司馬懿は曹丕の側にいただけだった。
そのときには感じなかった好き≠ニいう感情。
その感情に気づいたのは司馬懿が曹丕の元から去った後だった。
今は父上であり、主公でもある曹操の許にいる。
「仲達・・・」
曹丕は静かにつぶやいた。
司馬懿は曹操の部屋に呼び出された。
その部屋の前には許チョが静かにたたずんでいる。
「お呼びですか?」
司馬懿は普段と変わらない表情で部屋へと入る。
曹操は入ってきた司馬懿を確認すると、一言いった。
「そばに来い」
司馬懿はその言葉に答えるかのように曹操の側・・・寝台へと歩み寄った。
同じ日常。
曹操が司馬懿を抱く。
それを無表情で司馬懿は受け止める。
部屋の前の許チョは一切他言はしない。
「司馬懿・・・」
曹操はつぶやくように司馬懿の名を呼んだ。
司馬懿の口から漏れる吐息。
それだけでも曹操の身体は震え、酔いしれる。
「司馬懿・・・」
もう一度、名を吐く。
今度はつぶやくように・・・。
決して、司馬懿は仲達≠ニ呼ばせてはくれなかった。
それ以外のことは受け入れてくれるのだが、字で呼ぶことだけは拒み続けていた。
曹操もそれ以上は何も言わなかった。
本当ならば、すぐにでも仲達≠ニ字で呼んでしまいたい。
そんな衝動に駆られながらも、曹操は思いとどまっていた。
気に食わないと思うが、いずれ。という気持ちで無理やりと押し込んだ。
曹操は司馬懿の才能を認めていた。
だからこそ、登用した。
しかし、同時に心の奥底にざらつく様な不快な気持ちもあったのも事実だった。
不快感に似ているもの。
嫉妬に似ているもの。
曹操自身、はっきりとはわからない。
ただ、漠然とそう、感じるだけ。
もしかしたら、司馬懿のことが嫌い≠ネのかもしれない。
そんな気持ちが心にあるときは決まって、激しい情事へと変わる。
司馬懿の身体ごと、壊してしまいたくなる。
その綺麗な顔を醜く、歪めて見たくなる。
その口から漏れる吐息を悲鳴に変えてやりたくなる。
そして、そのまま・・・息の根を止めてしまいたくなる時さえある。
それでも、身体を重ね、抱き続け、肌が触れ合っている時は何故か、
心も身体も満たされていた・・・。
「司馬懿・・・これで、よかったのか?」
情事の後、二人は落ち着くと、曹操はふと、そう言った。
司馬懿の本心が分からない。
つい数週間前までは息子の曹丕の側にいた男なのだ。
もともと、曹丕の側に置いたのは他ならぬ曹操だった。
司馬懿を使いこなせるかどうか、見てみたかったのが、半分。
残りの半分は・・・性格的に曹丕に合うだろうと勘のようなものを感じた。
そんな単純な考えだったのだが。
曹操も司馬懿を自分の許から離して見て、己が気持ちに気づいた。
――司馬懿に惚れている――
その気持ちに気づいたとき、曹操は信じられなかった。
部屋の中、一人。
自分自身にただ、怒る気もなく、ひたすら馬鹿みたいに苦笑いをこぼした自分がいた。
「もう一度、訊く・・・これで、本当にいいのか?」
曹操は同じ質問を司馬懿に投げかけた。
曹丕と司馬懿の関係を知った上での問い。
あの二人も互いの気持ちはどうあれ、身体の関係を持っていた。
間違いなく、司馬懿に惚れているのは曹丕の方だと曹操は直感的に感じ取った。
司馬懿は揺れもしない表情を曹操に向けると、
「ここにいるのが、答え・・・ではいけませんか?」
そう、淡々と答えた。
ふと、曹操は思い出した。
笑わない。
いや、司馬懿が笑った所など、見たことがない・・・そう思った瞬間、
「お前は笑うのか?」
気がつくと、曹操はその思いを言葉に出していた。
司馬懿はその言葉に何も答えなかった。
――司馬懿、わしはお前に惚れているらしい。お前が欲しい――
主公であり、同性でもある曹操からの突然の言葉。
司馬懿はそれなりに驚いた。
もちろん、曹丕との関係も現にあったのだから、そのことには驚きはしない。
ただ、司馬懿自身、曹操に嫌われていると思っていた。
時折、曹操が嫌悪感たっぷりの表情で司馬懿を見るときがある。
だから、司馬懿は好まれていないと感じていたのだった。
それが、惚れている≠ニ言われたのだ。
そのことの方が司馬懿にとってびっくりした。
しかし、突然、好きだから、欲しいと言われてもどうかと思うが、
司馬懿は曹操の真っ直ぐに見つめる視線を直視しながら、
否定はしなかった。
司馬懿は曹操の要求を無言のまま、受け入れたのだ。
司馬懿自身、どうして受け入れてしまったのか、分からない。
心の奥底で曹操という人物に惚れていたのかも知れない。
しかし、性格的には合わないと思ったのも事実だった。
司馬懿は何故かなんて考えなかった。
考えても分からないこともある。
身体を重ねるだけの存在でもいい。
司馬懿は今はそれでいい。と思った。
曹丕は窓の外を眺めては、ため息を吐いていた。
雲が三日月を隠していた。
時折みせる、月の光が気分的には気に入らない。
「今頃は・・・父上の腕の中か・・・・」
忘れようと思っていても忘れられない想いがある。
静かな夜は深く眠りに落ちるまで、この気持ちが燃え尽きることはなかった。
そして、目覚めると再び、燃え上がる日々が続いた。
胸が痛かった。
想っていてもその、想いが帰ってこないことを知っている。
それでも・・・曹丕は想い続けた。
司馬懿は自分の意思で父上を選んだ。
「・・・仲達・・・何故・・・父上なのだ・・・・」
無意識に窓を拳で叩いていた。
ガラスが勢いよく割れて弾け飛んだ。
曹丕の頬と拳に傷をつけた。
ガラスの割れる音で兵士が部屋に慌てて入ってきたが、
曹丕の怪我を見ると、すぐに部屋を飛び出した。
拳からは紅い血が流れていた。
痛みが走ったが、痛みよりも胸の痛みの方が強かった。
曹丕は流れ出る生命を無言のまま、みつめていた。
つづく