KIOKU 〜記憶〜 @ 





「曹丕さまっ!!」

司馬懿が声を上げた。

暴れまくった馬が一頭、曹丕に向かって走ってきた。

と、いうより突っ込んでくる。

見事なまで、鼻息を高く、暴走していた。

曹丕は避けようとした。だが、身体が強張って動かなかった。

それを司馬懿が曹丕を突き飛ばし、庇った。

とっさの出来事であり、それが、全ての始まりだった・・・。



「記憶喪失・・・?」

曹丕は耳を疑った。司馬懿が庇ってくれたお陰で、彼には怪我がなかった。

しかし、司馬懿が代わりに怪我を負った。

が、幸いにして重傷ではなかった。

ただ、以前の記憶を失っていた。

それを知らされたのは、その事故から三日経ってからだった。

医者は一時的なものだろうと言っていたが、真っ先に青ざめたのは曹丕だった。

倒れはしなかったが、実際には言い知れないショックと不安に襲われていた。

司馬懿は現在、妻子のいる館で療養中である。

曹丕は震える体を引きずって、見舞いに向かった。


館に行くと、下女ではなく、司馬懿の妻が出迎えてくれた。

曹丕は何故か息苦しさを感じたものの、表情には出さなかった。

「曹丕さまがお見えになられました」

司馬懿の妻はそう、言うと障子を開けた。

司馬懿は曹丕の姿を捉えると、布団から起き上がろうとしていた。

「いや、そのままでいい。どうだ、具合は?」

曹丕は起き上がろうとする司馬懿を制したが、結局起き上がってしまった。

見た感じでは元気そうだったが、何かが違っていた。

「曹丕さま、わざわざ申し訳ございません」

司馬懿は恐縮して、そう言った。

「気にするな、司馬懿。その怪我はもともと、私を庇ってのことだ。早く治せよ」

曹丕は苦笑いを浮かべながら、司馬懿に優しく言葉を投げかけたが、

沸き起こる不安感と息苦しさは増すばかりだった。

――出たい――

司馬懿に会えたというのに、一秒でも早くここから出たい。

今はそれだけが曹丕の心を支配していた。



曹丕はため息を吐くと、出てきたばかりの館を見上げた。

――仲達――

別人・・・曹丕はそう思った。

何処かよそよそしく他人行儀過ぎた男。

曹丕が知る男とは到底思えない程の変わりようだった。

記憶を失うだけで、あんなに変わるものなのか――

司馬懿への違和感と息苦しさを募らせながら、曹丕はその場を後にした。



その夜――

曹丕は館ではなく、仕事部屋として使っている自室にいた。

その部屋でよく、司馬懿と夜を共にしたものだ。

見舞いに行った時の違和感は薄れているが、代わりに不安が増した。

司馬懿の記憶が本当に戻るのだろうか・・・・。

曹丕はそれだけが心残りだった。

司馬懿を抱けなくなるよりも、二人で過ごした時間が失われてしまったのだ。

よく、誰かが言う。想い出は作り直せばいいと・・・。

それは互いに気持ちが通じ合ってこそ、だと曹丕は思う。

今の司馬懿には曹丕と同じ気持ちはない。

ただの主従関係なのだ。

見舞って、そう実感した。

「いつまで続くのだろうか・・・」

曹丕は独り静かにつぶやいた。



あれから、しばらく時が経ったが、見舞いはあれ以来一度も行ってなかった。

行けば、司馬懿の妻に会う。

司馬懿と同じ顔をした別人のような男と話さなくてはならない。

他人行儀・・・それだけでも曹丕の心を揺さぶる。

不安定な心が苛立ちと嫉妬にも憎しみにも似た感情を生ませる。

自分の心を抑えるだけで一杯だった。

見舞いに行かなくても、今の司馬懿ならば、何とも思わないだろう。

そう、形式だけの見舞いだと、思っているだろうから。

そう、思うと、曹丕は何だか寂しくなった。

しばらく、彼のことを考えるのはよそう。

そう思わなければ、気が狂いそうだった。

「曹丕さま。今日もご一緒なされますか?」

「そうしたいが・・・迷惑では・・・ないのか。将軍?」

最近、曹丕は夏侯惇に頼んで、調練に同行させてもらっている。

何かに夢中になれば、司馬懿のことを考える余裕もなくなると思ったからだった。

それが調練でなくてもよかったが、真っ先に思い立ったのが調練だった。

「少しでも曹丕さまがお元気になれば、と思っております」

夏侯惇は隻眼でありながらも、澄んだ目を曹丕に向けた。

「そうか、ではお言葉に甘えるとしよう」

曹丕は顔をほころばせると夏侯惇と共に、兵舎へ向かった。



そして、それから幾日か経ったある日のこと。

「曹丕さま」

部屋に戻ろうとした、曹丕の背後から、忘れもしない声が聞こえた。

思わず、我を忘れかけたが、震える体を抑えながら、曹丕は振り向いた。

司馬懿が静かに立っていた。

調練の時は考える余裕はなかった。

自室に戻ると司馬懿のことを思い出したりするが、眠るまでのつかの間の時間だった。

それでも。一日たりとも忘れたことはなかった。

それが、突然の司馬懿の訪問。

当然、彼の妻はいない。

久しぶりに見る司馬懿の姿に曹丕は飛び出しそうになる心臓を押さえた。

曹丕は彼を中へと招き入れた。

「どうした、仲達?」

気持ちを鎮めながら、曹丕は問う。

暖かい茶を出し、向かい合うように椅子に腰掛けた。

「怪我が完治いたしました。それで、明日から仕事に復帰いたしますので」

「わざわざ?」

曹丕は茶をすすりながら、司馬懿の様子を伺っていた。

以前より少し痩せた気がしたが、よそよそしさは相変わらずだった。

「自分の口から・・・伝えたかったのです。何故か、そうしなければならないような気がして・・・」

その言葉を口にした、司馬懿の顔がほんのり紅くなっていた。

曹丕はそんな司馬懿をかわいい。と思った。

自然と顔がほころむ。

不安も違和感も確かにまだ、ある。

「仲達、これから付き合わぬか?」

その曹丕の言葉に司馬懿は驚いて、顔を向ける。

曹丕は何故か、帰したくない。と思った。

「お前の全快祝いだ」

そう言って、立ち上がった曹丕は酒と杯を適当に持ってくると笑みを浮かべた。

彼にとって久しぶりの笑顔だった。

曹丕は改めて、司馬懿に記憶がないとしても、自分は彼のことが好きなのだ。

そう、思った。

司馬懿も、曹丕の笑みにつられて、笑みをこぼしていた。



つづく