幸福しあわせ 1 (運命の人 外伝)












「伯どの、ここにいたのですか?」

張遼は丘らしき場所に立つ、女に声をかけた。

伯と呼ばれた女は張遼の知り合い。

かの、呂布の片腕といわれた高順の娘だった。

呂布が下ヒ城で討死した時、高順も同じ運命をともにした。

陳宮は投降を拒否して、その命を散らした。

ただ、張遼と伯だけは投降した。

それが高順の願いだった・・・から。

「あ、文遠さま、どうかしたのですか?」

高伯は張遼の方を振り向いた。

健康的な女性。しかも父である高順と劣らぬ武芸の持ち主でもある。

高順と張遼は生前、仲がよかった。

よく館にも顔をだし、暇さえあれば酒を交わしていた。

互いに主である呂布を敬愛していた。

その武を。

武人として。

そして、高順に仲間として、友として、いろいろな想いを寄せていた。

それもあってか、高伯は張遼を兄のように慕っていた。

しかし、いつしか【兄さま】から【文遠さま】に変わっていた。

それはそれで、張遼はあまり気にしなかった。

「殿がお呼びです」

その張遼の言葉に高伯の表情が曇った。

「・・・申し訳ない。父上から・・・頼まれていたのに、たいした力もできずに・・・」

張遼は申し訳なさそうに頭をさげた。

「おやめください、文遠さま。貴方が謝る必要はありません」

――今は乱世なのです――

高伯は表情のかたいまま、微かに笑みをこぼした。



「戻ったか、伯・・・」

曹操は室内に入ってきた高伯の姿を確認すると、そういった。

曹操は衣一枚羽織った姿で、寝台の上に腰掛けていた。

「お呼びとお聞きしましたが・・・」

高伯は彼の前に膝をおり、頭を下げた。

「そばにこい」

「・・・はい」

高伯は短く返事をすると、曹操のそばへ歩み寄った。

いつもと変わらない日常。

あの日から続く・・・苦痛な日々。

毎日ではないけれど、妾のような・・・生活。

女として、曹操に抱かれる。

彼が望めば、甘い吐息さえもだせる。

そこには一切の感情など・・・ない・・・から。

だが、曹操はしずかに彼女を抱くだけ。何も強要しなかった。

ただ、生きているだけ。

いや、生かされているのか。

他に生きる術がない彼女にとって、それしか選択権がなかった。

「・・・伯。お前は武人として生きたいのか?」

曹操は身支度をする高伯に問いかけた。

曹操に投降してから、徐々に彼女の表情から感情が消えた。

抱かれているときでさえ、無表情のまま。

ただ、張遼といるときは少しだけ違っていた。

曹操は彼女を抱くたびに後味の悪い感情に襲われていた。

「女として・・・生きることは・・・もう、ないでしょう・・・」

高伯は表情を変えずに、しずかに答えた。

曹操はただ、部屋を出る彼女の姿が消えるまで見送った。




『生きろ』

父であったj高順はそういった。

張遼とともに――。

それだけだった。

まだ、この手に温もりがある。

父の大きな背中。そして、尊敬する呂布さまの姿。

ともに、戦場で戦いたかった。それだけを夢みて・・・儚く散った。

子供なりに父の主公に対する想いに気づいていたし、それを拒絶することもなかった。

――父上・・・今は・・・乱世・・・なのです――

高伯はただ、目の前にある一点を見続けていた。




下ヒ城――。

城門が開いた。それと同時に曹操は城内に足を踏み入れた。

「我が名は高伯っ!父上の仇っ!!!」

高伯は曹操の姿をその視線に捉えると、剣を抜き斬りかかった。

不意をつかれた曹操は避けきれずにその剣が肩口をかすめた。

だが、隣にいた夏侯惇に斬り返されていた。

「孟徳に手をl出すとは・・・いい度胸だな、女」

その場に崩れた高伯の目の前に夏侯惇の剣先が光った。

曹操は肩を手当てされながら、高伯をみていた。

「高順の・・・娘か・・・」

曹操はつぶやいた。今の太刀筋をみて、いい腕をしていた。

殺すには惜しい。そう思った。

「待て、元譲」

「しかし孟徳・・・」

曹操は夏侯惇がとめる間もなく、高伯の前まで近づいた。

「お主、わしに仕えぬか?殺すには惜しい腕だ・・・」

「貴方の首をくれたら、考えてもいいわ」

高伯は強気にいった。

「孟徳を愚弄する気かっ!!!!」

夏侯惇は高伯の言葉に怒りをあらわにして、身を乗り出した。

「よせ、元譲っ!」

曹操は再び、夏侯惇を制止した。

夏侯惇は仕方なく、その場に踏みとどまったが、怒りが収まることはなかった。

「面白い女だ。実に惜しいな・・・」

曹操はハハハと笑いながら、その高伯のあごをつかんだ。

「・・・なら、その命を散らすか?仇を取らぬまま・・・」

曹操の瞳の奥が妖しい光を放つ。

高伯はその威圧感に身震いが走ったが、何とか押さえ込んでいた。

「連れていけ」

曹操は高伯から手を離すと兵士に命令した。

「お待ちくださいっ!」

高伯の背後から慌てた声がひびいた。

彼女のよく知る男、張遼だった。

張遼は縄で縛られていながら、高伯の前に駆けより、膝を屈した。

「おまちください、それがしは彼女の亡き父、高順より彼女を託されました。どうか、お許し頂きたいと存じます」

「文遠・・・さま・・・」

高伯は胸が痛くなった。そんな膝を折る彼を見たくなかった。

しかも、自分のために・・・。

乱世ではそんなことは多々あるが、張遼のそんな姿を見てショックをうけた。

「では、お前が代わりに死ぬか?」

うつむく、張遼の顔が一瞬だけ強張った。しばらく沈黙が流れた。

「それも・・・できません・・・・」

張遼は顔をあげた。その双眸には一切の迷いはなかった。

あるのはただ、戦友との約束を果たす。その熱い想いだけだった。

「お前の顔に免じて許す。ただし、条件がある」

曹操はふっと笑みをこぼした。

高伯を曹操のそばに置くこと。それが条件だった。

まるで、彼女は人質だといわんばかりに。

その言葉に張遼の表情が再び強張った。

「高伯、お前はどうする?」

曹操と張遼の視線が彼女に向けられた。

高伯は張遼と目があうと、フッと笑みを浮かべた。

互いを気遣うあまり、曹操に弱みを握られた。

高伯はそう思った。

互いが人質になってしまった。そう痛感した。

それでも。

高伯には張遼を死なせたくなかった。

「仰せのままに――」

高伯はその場で姿勢を正しながら、無表情なままそういった。

――父上・・・今は・・・乱世なのです――




つづく