幸福しあわせ (運命の人 外伝)






『兄さま』

まだ、父が生きていた頃。

高伯は父、高順と張遼、そして呂布から武術を学んだ。

陳宮からは兵法を少し学んだ。

しかし、高順の血を引いているのか、兵法よりも武術がどんどん伸びていった。

『兄さま・・・伯はもっと大きくなったら、兄さまと一緒に戦場に出たいです』

幼いころの記憶。

そう言った、高伯に張遼は優しく頭を撫でてくれた。

そのときの手の暖かさをまだ、覚えていた。




「夢・・・」

高伯は目を覚ました。まだ、外は暗い。

何故、今頃になってこんな夢を見るのだろうか。

もう、叶うことのない夢。

一生、曹操の妾でいなければならないのだから。

もう、戦場に出ることも・・・ないだろう。

滅多に見ることもなくなった、張遼の姿。

心を殺すことに決めた。

あんな張遼の姿を見たくなかったから・・・。

自分を助けるために、命乞いのような無様な姿など――

あのまま、死んでもいい。とさえ、思った。

仇である男に仕えるなど。

しかし、父上の想い・・・。

――生きろ――

そして、託された張遼の想い・・・。

無駄には出来なかった。

「・・・文遠・・・さま・・・」

高伯は薄暗い部屋の中で、愛しい名をつぶやくと、頬を静かにぬらした。




「伯・・・側にこい」

今日も、曹操は彼女を求めた。

感情を殺した女を抱いて、面白いのか。ふと、高伯は疑問に思った。

しかし、自分から聞こうとは思わなかった。

どうでもいい。自分はただ、生きているだけ。息をしているだけの存在なのだから。

「・・・お前は・・・」

高伯は何も言わなかった。その手を振り払おうともしなかった。

ただ。

二人とも顔をみつめているだけだった。何かを測るかのように・・・。

「・・・いや、今の言葉は忘れてくれ」

曹操は静かに手を離した。高伯はそのまま着替えて、部屋をでていった。

「・・・わしは何をやっているんだ・・・」

曹操は一人になった部屋の中でひとりごちた。



部屋に戻った高伯は身体を洗い、そして寝台に入った。

コン コン

ふと、戸のたたく音が響いた。

コン コン

高伯は寝台から出ると、戸を開けた。

そこには張遼が立っていた。

「文遠さま?」

「こんな真夜中に申し訳ない」

高伯は張遼を中へと招いた。

椅子に腰掛け、茶をだす。

「どうかしたのですか?」

高伯は改めて問いかけた。

張遼は高伯の顔を見つめると、言った。

「任務でしばらく、ここを離れることになった」

「・・・前線に赴くのですね」

張遼はうなずくと、出された茶をすする。

最近、戦の話をよく耳にする。先鋒は噂で張遼と聞いた。

しばらく、沈黙が流れた。

「伯どの・・・・」

張遼が改まったように、高伯の名を呼ぶ。

高伯は張遼に名を呼ばれるたびに、心が躍っていた。

「もう・・・我慢はしなくても、高順殿はわかってくださる」

その言葉に高伯はうつむいた。

張遼は気づいていた。あのときから、彼女が心を殺していることを。

高伯とは長い付き合いだっただけに、

張遼はあの時の投降は間違いだったのではないかと、思い始めていた。

彼自身も、妹のように接してきた彼女につらい思いはさせたくなかった。

大切な人の忘れ形見・・・守りたいと、思った。

託された想いだけじゃなく・・・もっと深い・・・大切にしたいと想い。

「伯どの・・・」

高伯はその張遼の声で顔をあげた。

本当は抱きしめてやりたい。出来るなら、あの時、曹操を斬り伏せてやりたいと思った。

でも、抱いてはいけない感情。

彼女は、高順の娘だから――。

高伯のまっすぐな瞳が張遼を射抜く。

父譲りの瞳。

「文遠さま。私は貴方に会えてよかったと思ってます。そして、父と私に対する想いもうれしく思います」

「伯どの・・・」

高伯はフッと笑みを浮かべる。

「それに、これは私が決めたことです。文遠さまが、気に病む必要はございません」

そして、ご活躍をお祈りをしております。と付け加えた。




張遼が去ったあと、台の上に残る湯のみ。

高伯はそっと、張遼が使ったそれを手に掴むと、ふちに唇を近づけた。

――父上・・・・私は・・・・武人ととして・・・・あの方のそばに――

高伯はまだ、日の明けない暗闇の中で、静かに愛しい名前を呼んだ。


それから三日後。

夏侯惇を大将とした曹操軍が集結していた。

そして、その先鋒には張遼の姿があった。

不思議なことに、隣には鎧に身を固めた高伯の姿もあった。

曹操はその姿を遠くから眺めていた。

凛々しく見えた。あの姿が彼女の本来の姿だと、思った。

「文若、わしは甘いと思うか?」

「これからも、あの二人は殿のために尽くしてくださいましょう」

隣にたつ荀ケが静かにいった。

曹操はその言葉に笑みをこぼした。

あの姿に、あのまっすぐな瞳に自分はほれていたのだと、曹操は思う。

これが今、曹操に出来る精一杯の彼女への償いだった。

あとは・・・あの男にまかせよう。

曹操は彼女の隣にたつ張遼に目を落とす。

二人はとても幸せそうな顔をしていた。

「これから戦だというに・・・」

曹操は一人つぶやいた。


それからのち、張遼と高伯の二人の武勇は天下に知れ渡るには、また別の話である。



おわり