すれ違いの狭間で (Z)





「荒れてきたな・・・」

曹操は強風に乗って雨粒が窓を叩きつける様を見つめていた。

「・・・孟徳」

曹操の背中から夏侯惇の腕が伸び、静かに夏侯惇は引き寄せた。

曹操もその暖かい温もりに安らぎを感じていた。

無意識のうちに腰に伸びた夏侯惇の腕に手を添えていた。

「考えはまとまったのか?」

曹操の気持ちを悟っているかのような言葉。

「・・・うむ・・・」

一呼吸置いて発した曹操の声。

その顔と声には決意と覚悟に溢れていた。

「そうか・・・」

夏侯惇は曹操の顎を引き、そのまま静かに唇を重ねた。



翌日――

曹操は司馬懿を朝廷に呼びつけた。そこには副丞相の曹丕や夏侯惇といった

数人の将軍と荀ケといった軍師なのどの面々が並んでいた。

物々しい空気であった。

「お呼びでございますか。殿」

一礼をして、顔を上げる。

「蜀の諸葛亮が我が領内に攻めてきている。場所は街亭である。

司馬懿よ。お前も軍師として従順せよ」

曹操は司馬懿にそう命を降した。司馬懿はこれを一礼して受けた。

「なお、今回はわしの代わりに曹丕を総大将とし、補佐役兼軍師として司馬懿。

先鋒は張コウ。そして曹真。出立は明日未明、以上だ。」

曹操はそう言って、司馬懿の顔をうかがったが、何の変化もなかった。

「父上」

その曹操の命に曹丕は手をあげ、一斉に曹丕に視線が集まった。

「今回の戦は確かに父上・・・いえ、殿が自ら出陣せずとも勝てましょう。

しかし、総大将を病み上がりの私に一任するのはどうかと思います」

「お前はわしの跡継ぎであろう。病み上がりといっても病気ではなかったはずだ。

それに・・・司馬懿もおろう?」

曹操のその言葉に曹丕はただ、うなずくことしかできなかった。

曹操の解散。という言葉が響き、一人一人とその場を退場していく中、

曹丕はまだ、その場に留まっていた。

司馬懿はすでに退室していた後でそこには曹操と夏侯惇しかいなかった。

「聞こえなかったのか。お前も戦の準備があろう?」

「何故・・・今になって酷なことをなさるのですか、父上は・・・」

静かに言葉を吐く、曹丕に対し、曹操は冷静に息子の顔を射抜いた。

「諸葛亮が相手では司馬懿を使うほかあるまい?

それに・・・わしはお前に司馬懿と話をする機会を与えたのだ。不服なのか・・・丕よ」

その言葉に曹丕は言葉を失った。

「・・・い・・・戦の準備をいたします・・・」

曹丕はそれだけをいい、その場を後にした。

後ろ姿を曹操は静かに見守っていく。

それは覇業を成しえる覇者としてではなく、一人の父親として・・・。

「・・・丕よ・・・簡単には消せることはできぬ。それを乗り越えていくのもお前自身の力だ・・・」


――あんなに想われているとはな・・・気にいらぬが・・・羨ましい・・・な――


曹操はつぶやくように言った。

隣に立つ夏侯惇はただ、見守るようにたたずんでいた。



「司馬懿どの!」

退室した司馬懿に曹真が声をかけた。

「これはこれは曹真どの。いかが致した?」

司馬懿は軽く会釈をすると曹真も同じように挨拶をした。

「司馬懿どの、軍師としてお聞きしたい。此度の戦はどうでしょうか?」

司馬懿はフッと笑みを小さくこぼすと、

「街亭に兵を進めるのは私であれば、同じことをしたであろう。

だが、街亭で諸葛亮を足止めすることが出来ぬであれば、一気に形勢は逆転するであろうな。

こたびの戦は蜀軍を街亭からいかにして撤退させるかが問題であろう・・・」

そういった。

「私もそう思いますが、相手はあの諸葛亮では一筋縄ではいかないでしょう」

曹真も静かに言う。

「曹真殿、この戦では曹丕さまの側にいて頂きたい・・・」

司馬懿はそこまで言うと、そのまま曹真の返事を聞かないまま、その場をあとにした。


その夜。

司馬懿は明日の戦のため、執務室で作戦を練っていた。

ある程度の予測は出来る。しかし、それはあくまで予想。

戦場で実際に戦ともならなければ、分らないこともある。

司馬懿は大体の作戦をほぼ決めると、かすかに背伸びをした。

そんなときだった。

コン コンと戸をノックする音と一緒に声がした。

「仲達、私だ。入るぞ」

そんなことを言って入るのは一人しかいない。

むろん、字を呼ぶ人も・・・。

ドキンと心臓が高鳴る想いがした。

会うのは久しぶりのこと。政務や朝廷で会うことはあっても

最近は互いの部屋に行き来することさえなくなったのだ。

飛び跳ねる鼓動を抑えながら、司馬懿は椅子を用意した。

「いや、用が済めばすぐにでも帰る。急に訪ねてすまない。お前に聞きたいことがあってな」

曹丕は用意された椅子に座らず、司馬懿の机の前に立つ。

その表情はいつもと同じ凛々しい顔。

いつも以上に冷静な・・・そんな印象を受けた。

「私に聞きたいこととは・・・此度の戦のことでしょうか?」

「あぁ、作戦は練ったのか・・・」

曹丕は机の上の書類にフッと目がいった。

そこには此度の戦の予想がびっしりと埋まっていた。

「お前のことだ、諸葛亮が誰を先鋒にさせるか、薄々感づいているのだろう?」

「かなり高い確率で弟子の一人、馬謖かと思われますが。」

司馬懿もまた、椅子には座らず、机の上の書類を見て平然とそういった。

曹丕は笑みをこぼし、

「上出来だな。私の元に去っても、その頭のキレは鈍ってはいないようだ・・・」

「・・・ご冗談を。」

久しぶりに長く顔を合わせる一時。

そんなにときは経っていないのに、まるで何十年もあった事ない位新鮮だった。

口から漏れる一つ一つの言葉が意識していないと別の言葉に代わるような気さえする。

司馬懿はそう感じていた。

司馬懿はそれ以上、言葉がでなかった。

彼――曹丕への想いが募り、冷静を保てなくなりそうだった。

「・・・仲達・・・」

曹丕がそっと、司馬懿の字を呼ぶ。

司馬懿の身体が微かに震えた。

曹丕は司馬懿の腕を掴み、引き寄せた。

司馬懿の身体が曹丕の胸の中への埋まる。

「――っ」

驚きで司馬懿は何が起きたのかわからなかった。

それでも・・・その心地よい温もりは司馬懿に安らぎを与えた。

「仲達・・・お前のすべてが・・・知りたい・・・お前の本音も・・・嘘も・・・そして、この未来も――」

「・・・子桓・・・様」

司馬懿は曹丕の身体を押し退けると、曹丕の顔を直視した。

「子桓様・・・私は・・・・」

曹丕は何かを言おうとする司馬懿の唇を人差し指で制した。

「言うな。今は・・・何も言うな。私はお前の幸せだけを願っている・・・」

曹丕は笑みを浮かべたが、無理に笑ったせいか、引きつっていたが、

そんなことまで気にする余裕はなかった。

曹丕は司馬懿の返事も聞かず背を向けると、戦では健闘を祈る。といって、部屋を後にした。

パタンと戸の閉まる音が部屋に響き、司馬懿はその場に泣き崩れた。

「・・・子桓さま・・・申し訳・・・せん・・・私は不甲斐ない臣で・・・ます・・・」

部屋は再び、冷たい空気をまといだした。




つづく