薬草と毒草 V






「孟徳・・・大丈夫か?」

夏侯惇は曹操の部屋で曹操とともにいた。

「うむ・・・大事ない。心配するな、元譲・・・」

曹操は最近になって体調を崩した。歳のせいもあるだろう。

しかし、天下はまだ、三分になったままだった。

隣にいる夏侯惇は心配して、時間がある日にはこうして、見舞ってくる。

もちろん、夏侯惇とは肌を重ね合った仲なので当然だが。

そんな少しの気遣いが曹操には嬉しかった。

他の者も心配してくれるが、彼ほどではないだろう。と曹操は思っていた。

挙兵から数十年。息子の丕も後を任せられるようになった。

自分に似ているのか、それ以上なのか、文武ともに優れている。

それに、あの司馬懿がついているのだ。

あの二人ならば・・・大丈夫だろう。そう思った。

そういえば・・・ふと、曹操は思った。

息子たちとは父親らしい会話がなかった気がする。

毎日が戦やらでそんな暇がなかった。

あったとしても、自分はしないだろう。とも思った。

乱世では親・子同士でも争うのだ。ただの血のつながりだけだ・・・。

日ごと、そう思うのは自分が歳を取ったせいだろう、そう思う。

「孟徳、少し休んだらどうだ? 疲れているせいかも知れん」

天井を見て、考え事をしていた曹操に夏侯惇が気遣った。

「・・・そうだな・・・まだ天下は遠い。ここで立ち止まれはしないからな」

老いたとはいえ、瞳の奥の輝きは消えはしなかった。

夏侯惇は立ち上がろうとした。

それを曹操が呼び止めた。

「元譲・・・」

曹操は静かに名を呼び、微笑んだ。

「・・・孟徳?」

夏侯惇はその光景に何か違和感を感じたが、またな。と言って、その部屋を立ち去った。

曹操は一人になった部屋の中で天井を見つめていた。

しかし、その瞳の先には天井ではなく、何処か遠くを映していた。



「仲達、どうしたのだ。元気がないようだが・・・?」

いつものように司馬懿は曹丕の部屋にいた。

曹丕が強引に招いたのだが、そうしなければ、司馬懿は自ら進んでは訪ねてはこない。

彼の想い人が父、曹操であることを知っていても

曹丕には司馬懿が必要だった。

ただ・・・その想いは報われない。曹丕にも司馬懿にも分かっていた。

分かっているからこそ、曹丕は司馬懿を抱きしめたくなる。

全てを自分の物にしたい。

時々、彼の中から父の存在を消したくなる衝動に駆られる。

そんな時は決まって、荒々しく強引に抱く。

「・・・すまぬ、仲達・・・」

激しい情事の後の曹丕の言葉はいつもそれだった。

「・・・子桓様が謝ることは・・・ございません」

司馬懿もまた、同じ言葉を返す。そして、衣服を整えると、何事もなかったかのように出て行く。

それが二人の間では当たり前になっていた。

「仲達・・・」

曹丕はその後ろ姿を見送りながら、振り向きもしない愛しい人の名を呼ぶ。

そして、否応なしに虚しさがこみ上げてくる。

それも・・・当たり前になっていた・・・・。




――頭が・・・重い・・・――

曹操は天井を見上げながら、日に増してひどくなる不調を悔やんでいた。

まだ・・・天下は見れなかった。

あと数年――そう思うと悔しさで涙が出た。

頭痛がひどくなった。身体は無理をすれば動く。

だが、頭蓋が割れるように痛かった。

治療のお陰で、多少は楽にはなったが・・・。

――長くは・・・ないか・・・――

曹操はそう思った。

コンコン

ノックが響き、扉が開いた。

「殿、失礼します」

入ってきたのは司馬懿だった。

いつもと変わらない表情。自分の策と引き換えに曹操の身体を欲した男。

久々に見た司馬懿だったが、少し痩せた気がした。

司馬懿は寝台のそばの椅子に腰掛けた。

「お体の具合はいかがです?」

「まぁ、悪くはない・・・」

確かに悪くはなかったし、よくもなかった。

ただ、確実に死≠ェ近づいていることだけは確かなようだった。

「司馬懿よ・・・」

曹操は静かに名を呼んだ。

ただ・・・呼んだだけ。別に何かを言うことはなかった。

司馬懿だけがあとの言葉を待っていた。

「・・・丕のこと・・・頼む・・・」

不意に曹操の口から出た言葉に曹操自身が驚いた。

司馬懿も当然驚いている。

今まで、司馬懿に頼みごとなど皆無に等しかった。

曹丕には司馬懿が必要。それだけは何となく分かっていた。

それに未だに司馬懿の才に惚れていたのか。

「殿・・・」

司馬懿がつぶやいた。

これが最初で最後の頼みなのだろう。と司馬懿は思った。

そして、その頼みごとの裏に隠されている意図にも・・・。

「一度だけだ・・・・」

曹操は静かに目を閉じると司馬懿に身体を委ねた。



「殿・・・ここにおりましたか・・・」

曹操の遺体が眠る場所。

父が亡くなってから数週間が経つ。

「仲達・・・もうここには来ぬ」

曹丕は静かにそう言った。

「それがよろしいかと・・・思います」

司馬懿の表情は以前に比べて、少し柔らかくなったようだ。

「そういえば、以前父上がおっしゃっていた」

曹丕は思い出したようにつぶやく。

司馬懿は隣で言葉を待っていた。

『わしにとっては【毒草】だったが、お前にとっては【薬草】だったな・・・と』

曹丕はそう、いうと歩き始めた。

司馬懿も後に続く。

曹丕は曹操と司馬懿の間に何があったのか聞かなかった。

もう、父はこの世にいないのだから。

ただ・・・二人の関係はあの時のまま。

時間だけが過ぎ去っていた。

しかし、少しはよくなったと曹丕は思う。

二人で居るときは子桓様≠ニ呼んでくれるから。

曹丕は隣にいる司馬懿の顔を見つめながら、微かに笑みをこぼした。

空は一段と蒼く染まっていた・・・。




――司馬懿よ。丕を頼む・・・――

曹操の最後の願いを胸に司馬懿は曹操から托された天下統一を、曹丕とともに歩もうと誓った。






おわり