叶わない想い   








――雲長・・・翼徳――



川の音。

その音に混じって兵士の調練の声が微かに響いた。

――白帝城――

呉との戦いに大敗した劉備は、この城に留まっていた。

二人の義兄弟を失くし、戦にも敗れ、そして・・・多くの兵士や武将を失くした。

その痛心からなのか、劉備は病を得ていた。

事実、病なのかどうか。わからない。

ただ・・・痛かった・・・。

諸葛亮に合わせる顔がない。

コン コン

ノックの音とともに、部屋に王平が入ってきた。

「殿、諸葛亮丞相がお見えになられましたが・・・」

王平の背後から、諸葛亮が入ってきた。

起き上がろうとする劉備を二人は止めたが、

数人の女官に支えながら、劉備は身体を起こした。

「お身体の具合はよろしいのですか?」

諸葛亮は差し出された椅子に腰掛けると、主の様子をうかがった。

ひどく憔悴しきった顔。

少し痩せた身体。

全体的に気が滞っている。そんな印象を受けた。

王平はすでに部屋から出ている。

近くには女官が数名いるだけだった。

「孔明の顔を見たら・・・よくなった気がする」

劉備は微かに笑った。だが、それは一瞬のことだった。

「孔明・・・私はまだ戦えるだろうか?」

うつむき加減で静かにつぶやく劉備に諸葛亮は無意識的に手を握り締めていた。

「孔・・・明?」

「殿は戦い続けなければなりません。殿の大望のために。

                     そして、失った多くの者たちのために・・・」

――私が・・・まだ、貴方の側には私がいます――

気がつくと、諸葛亮はそう、口に出していた。

「孔明・・・すまない。私にはまだ・・・お前がいる・・・のだな」

劉備はそっと涙を落とした。




『兄者』

張飛が川魚を生け捕ってきた。

それを張飛と関羽、そして数名の部下と食べることが劉備は好きだった。

流浪が多く、苦労をかけっぱなしだったが、

あの頃はそれはそれで楽しかった。

色々あった。目を閉じるとまぶたに映るのは二人の兄弟のこと・・・。

姿形はいつでも想い出せる。

すぐ隣にいるように感じられるのに・・・・。

身体を襲う痛みだけは引かなかった・・・。



――兄者、死ぬときは一緒だぜ――

『翼徳・・・』

――拙者の居場所はやはり兄弟たちの元なのだ――

『雲長・・・』

横になった劉備の両目から再び、涙が零れた。



「殿・・・」

諸葛亮は深いため息を吐いた。

白帝城に滞在して数日。

成都には姜維を残している。

彼ならば、安心できる。しかし、長居はできなかった。

諸葛亮にはやることが山のようにある。

それでもあのままの劉備を置いていくことは出来なかった。

空を見上げ、星を見る。

劉備の星。

自分の星。

まだ、二つとも輝いている。

「殿・・・」

――逝かないでください――

それは願いだった。




『諸葛亮どの』

劉備が諸葛亮のいる隆中訪ねたのは三回。

諸葛亮は国に仕官する気はなかった。

だが。このまま、朽ち果てる気もなかった。

どうしたらいいのか、わからないままに諸葛亮は時を過ごしていた。

『顔を上げてください、劉備どの』

顔を上げた劉備に諸葛亮は静かに笑みを浮かべた。

『参りました。貴方の大望のためにお力になりましょう』

諸葛亮が折れた。

雨や雪の中、待ち続けたという劉備に心を打たれたのも、少しはあった。

ただ、劉備という男を見た瞬間。

彼の大望を聞いた瞬間。

諸葛亮の身体の中から何かがはじけるのを感じた。

直感的に諸葛亮は思った。

――この人の元ならば――




「殿・・・」

諸葛亮は空を見上げ、自分の星を見上げた。

まだ輝いていた。

しかし、そこには劉備の星はない。

劉備と出会ったのは運命だったのかもしれない。

お互いに水魚の交わりとも言われるほど特別な存在だった。

でも――

――私では・・・あの二人の代わりにはなれない――

いや、なれなかった。



劉備は夢の中、懐かしい声を聞いた。

『雲長、翼徳・・・今・・・逝く――』

伸ばした手の先に光があった。

とても暖かい光だった。

劉備にはそう、感じた。

「殿・・・」

諸葛亮は無意識の内に伸ばされた劉備の手を握り締めた。

――どうか・・・逝かないで――

――私を置いて・・・逝かないでください――

それは願い。

最初で最後の想い。

諸葛亮はその冷たくなっていく手を握り締めながら、涙を流した。



せめて・・・貴方の大望を・・・

貴方の遺児に・・・託そう・・・・



――殿・・・私は貴方を・・・・――



――雲長・・・翼徳・・・やっと会えた――

夢の中、劉備は笑顔を浮かべた。


おわり