覇業の先に   






「もう、行くのか?」

寝台の上で横に横になっている袁紹は隣で着替え始めている男に声をかけた。

男は黙々と鎧を身にまとう。

その鎧は一般の兵士が着ているものと同じものである。

「おぬしのように暇ではない身でな・・・」

やや、嫌味のように男はそう言ったが、袁紹にとってはそれが逆に心地よかった。

「もう少しいてくれぬのか?」

すでに顔なじみの男。性格性格もお互いに熟知している。

袁紹は寝台から身を起こすと、着替えている男を後ろから抱きしめた。

「ほ・・・本初!?」

男は驚きのあまり、袁紹を昔のように字で呼んでしまった。

袁紹は驚きで固まっている男の耳元で静かにささやいた。

「孟徳・・・私は離れたくは・・・ない」

袁紹に抱きしめられた男は曹操であった。

「離せ、本初。それはいわない約束であろう」

曹操は袁紹の手をとると、静かにその手を身体から引き離した。

曹操と袁紹は互いに天下の覇者にならんと兵を官渡に集結させていた。

河北を制した袁紹と中原を制した曹操との戦で、対陣は数ヶ月にも及んでいた。

いずれ、どちらかが滅びる。わかりきったことだった。

曹操と袁紹が親密な関係になったのは最近ではなかった。

ずいぶんと前からだった。

昔からの悪友だった。

本心を隠して、利用したことさえある。

それでも一緒にいた。

互いの諸侯に内緒で密会したこともしばしばあった。

二人でいるときは戦の話はしなかった。

ただ、身体を重ねることと、昔話をするだけだった。

「・・・そうで・・・あったな・・・」

力なくうつむいた袁紹に曹操は振り向いた。

「・・・帰る・・・」

一言、そういっただけだった。

「孟徳・・・私は――」

曹操が帰るのを惜しんだ袁紹は身を乗り出すように声をだした。

「本初」

曹操は言葉をさえぎった。静かでいて、どこか冷めた感じだった。

今度会うときは戦場。

これで最後になるだろう。

直感のようなものが二人を襲う。

袁紹は唇をかみしめながら、自分の元から去る曹操の後ろ姿を見送った。


袁紹の営舎をでた曹操は一度だけ後ろを振り返ると、そのまま静かに立ち去った。

――これで・・・いいのだ――

ふと、曹操の頬に冷たいものが流れた。

自軍の本営に戻った曹操は寝台の上に身体を投げ出した。

疲れていた。このまま逃げ出したい。

そう、思った。思っただけで実行はできなかった。

覇者になる。これまでそれだけを夢見て、目指してきた。

今さら、袁紹とのことで逃げるわけにはいかない。

曹操はしばらく、ただボーとしていた。

「殿、文若です」

荀ケが入ってきた。曹操は寝台から身体を起こした。

「すべての準備が整いました。あとは号令を待つのみです」

「そうか。しかし、まだ勝機が見えてこない」

曹操の表情は硬い。その意味を荀ケは知っていた。

曹操自身も自分の表情が硬いことに気づいている。

「もう、よろしいのですか?」

荀ケがしずかにそういった。

その言葉の奥底に眠る意味を曹操は悟った。

「戦だ、荀ケ。心配せずとも終わったことだ・・・」

曹操はそういったが、本当にふっ切れたのか、わからなかった。

荀ケは曹操と袁紹との関係を知っている一人だった。

しかし、荀ケには見守ることしかできなかった。

あとは当人同士の問題なのだ。

荀ケは一礼して、その場から立ち去っていった。

――終わったこと――

果たして、本当にそうなのだろうか。

心の奥底で袁紹と戦いたくない気持ちがどこかにある。

曹操はそう、感じていた。

――覇者は・・・一人なのだ――

曹操はそう思うことで無理やりその気持ちを押し込めた。

深いため息のあと、曹操は目をとじた。



それから数ヶ月の対陣が続いた。

許攸が袁紹軍の兵糧庫の場所を持参して、曹操軍に寝返ってきた。

曹操はその兵糧庫を攻め、袁紹軍を壊滅させた。

目の前に袁紹が縄に縛られて、曹操の前に引っ張りだされた。

「袁紹・・・」

曹操はつぶやいた。

変わっていなかった。最後にあった、あの時と同じだった。

「曹操、私を斬れ」

袁紹はしずかに声を出した。その双眸は曹操をまっすぐに見つめていた。

曹操の瞳も袁紹を捕らえて離さなかった。

だが、何もいわなかった。

「覇者となる者、二人は必要ないといったのはお前だぞ、曹操」

袁紹は口を開いた。数分間ほど二人は互いの顔をみつめた。

その間、沈黙が流れた。

「・・・連れて行け」

曹操は無表情のまま、兵士に命令した。

――そう、覇者は二人はいらない――

曹操は心の奥でつぶやいた。

袁紹は兵士に連れられ、その場から立ち上がると曹操に背を向けた。

「孟徳・・・一足先に待っているぞ」

振り向かずに袁紹はわずかに笑みを浮かべ、そういった。

「本初っ!わしはっ!!!」

連行される袁紹の後ろ姿が遠くなると、曹操は声を張り上げるとあとを追うとした。

「殿、なりませんっ!!」

それを荀ケが身をていして引き止めた。

曹操の身体を押さえ込む荀ケの、部下の想いが身体を通して伝わる。

わかっている。

あとを追えばどうなるか。

わかっている。

曹操は唇をかみしめながら、目をしずかにとじて、踏みとどまった。

女だったら・・・。

覇者となる夢を持たなければ。

そんな想いは捨てよう。

――袁紹・・・さらばだ――

曹操はかつて友であった男が消えた彼方を見つめ続けた。