――降伏の後――

           

                                      ――死にたくなかった――

                                   ただ・・・それだけを思っていた・・・





「何、于禁が戻った?」

曹操はかなり不機嫌そうに報告を聞いた。

曹仁が護る樊城に関羽の軍勢が迫った時、

救援部隊として、于禁とホウ徳を向かわせた。

ホウ徳は元馬超の部下であるが、魏に降った一人だった。

未だに魏の中で解け切れない彼は、関羽に匹敵する位の武勇を持っていた。

以前から、お手合わせしたいと願っていたらしい。

救援部隊として、ホウ徳は曹操にその任を願い出たが、あっさりと断られた。

それでも関羽と戦ってみたいとホウ徳は自らの棺おけを用意して、

再度、曹操に願い出た。

曹操はその熱い想いに負け、于禁と共に、一任したのだった。

「むぅ・・・このままでは・・・」

ホウ徳のかっこよさに于禁は妬いた。

自分の力量では決して関羽に勝てないことは分かりきっていたから。

もしかしたら、ホウ徳ならば、関羽を討ち取れるはず。

そんな危惧が于禁の中で芽生えた。

ホウ徳と関羽の死戦を妨害し始めた于禁だった。

その足踏みの揃わない救援部隊を関羽は水攻めをして、壊滅させた。

ホウ徳は投降を拒み、于禁は戦わずして投降した。

その後、関羽が孫権軍に敗れると、于禁は魏に送還された。


「奴を呼べ」

曹操は不機嫌なまま、兵士に命じた。

しばらくして、于禁が肩身を狭くして広間に現れた。

「何故、呼ばれたか・・・わかっておろうな?」

平伏した于禁に厳しい目を向けて、曹操は静かに声を出した。

「・・・弁明はいたしません」

「ならば、全て事実だったと、いうのか?」

于禁はしばらく曹操の双眸を見つめていた。曹操も彼の瞳を見つめた。

その瞳の奥にはまだ、輝きを失ってはいなかった。

「・・・・はい」

于禁は静かに答えた。

「奴の首をはねよ」

曹操は兵士に命じた。当然の報いだ。

五将軍の一人として、長く魏を支えた一人であったのに、簡単に降伏した。

それだけでも死罪に値する。

しかも、何も弁明すらない。曹操はショックと怒りで埋め尽くされていた。

「お待ち下さい、将軍は今までの功績がございます」

一人の将がそう、言った。

曹操はフンッと鼻を鳴らすと、

「今回だけは特別じゃ、代わりに将軍の任を解く」

そう言った。



于禁はそのまま、館へと戻った。

妻子がいるはずだった・・・。

だが、そこには誰もいなかった。

「何処へ行った?」

館にいた下男に尋ねる。

「実家へ于圭(うけい)様とともに帰られました」

于圭は彼の子である。

于禁はため息を吐くと部屋にこもった。

「・・・・離縁か・・・」

于禁は筆を取ると、手紙を書き始めた。

妻と息子に宛てた・・・最後の手紙だった。

妻とは少しずつ、冷めた関係になっていった。

少し派手な女性で、自分とは合わなかったと、今は思う。

それでも、共にいたのは息子がいたからだと思うが、

それ以前にまだ、妻を想っていた自分がいたのだ。

于禁は書き終えて、筆をおろすとフッと苦笑いを浮かべた。

戦を知らぬ女どもが・・・

彼は無意識のうちにつぶやいていた。


『将軍、我が軍は壊滅です』

あの時、そう報告を受けた。

運良く高い場所にいたため、水攻めの難を逃れた。

彼の周りには数人の兵しかいなく、その兵の顔は憔悴しきっていた。

目の前でホウ徳が斬られていた。

それを見たとき、身が震えた。

戦場に出るときも、毎回、身体が震える。しかし、今回は違った。

相手はあの関羽なのだ。

本気で逃げだしたくなった。

しかし・・・それだけは出来ない。

プライドが・・・殿の名を汚すことになる。

少しずつ冷静さを取り戻すと、ホウ徳に対する想いがよぎる。

――死戦をさせてやれば・・・よかった――

後悔しても遅かった。もう、彼はいないのだから。

于禁は考え抜いて、一つの答えを出した。

――投降――

最初に思った。

――死にたくなかった――

その想いだけ。

しかし、彼は考えていた。ただでは投降はしない。

関羽にとって、悪い方向へ進むように仕向けてやる。

于禁はそう、思った。

数千の兵士が一気に投降した。当然のことで、兵糧が不足した。

関羽は同僚に兵糧を送れと頼んだが、もともと折り合いが悪い同僚だったせいもあって、

いざこざが起きていた。

そのいざこざは、兵糧ばかりではなく、呉に追われた関羽に援軍を送らないまでに

発展してしまった。

そして、関羽はその生涯を閉じた。

于禁はその報告を聞いて、ホッと安堵した。



彼は、将軍の任を解かれ、地方に飛ばされた。

それでも、于禁は曹操を憎みはしなかった。

彼は何もしらない。

于禁も何もいわなかったから。

これはホウ徳にしてきた罰だと思っている。

彼に嫉妬して、彼を無駄に殺してしまった・・・という罰。

ホウ徳は嫌いではなかった。純粋に戦いを望んでいただけだった。

あのときの自分は戦功に目がくらんでいた。

だから、投降者としての悪評もホウ徳と比較されるのも我慢できた。


数年後。

曹操が崩御した。

于禁は曹操が危篤という知らせを受けて、馬を飛ばしてきたが、

間に合わなかった。

許昌の城門の前で于禁は泣き崩れた。

一目だけでも・・・最後を見届けたかった。

曹操の後に息子の曹丕が継いだ。

しかし、于禁は覚悟を決めていた。曹丕とはあまり仲がよくなかった。

それに側にいる司馬懿は油断のならない男だった。


数日後、于禁は曹操の墓守を命ぜられた。

曹操の死に目に会えなかった彼にとって、その仕事は何故か嬉しかった。

そんな折、壁画に描かれている画を見て驚いた。

彼が尊敬している曹操の墓の壁画に関羽にひれ伏す自分の姿と

勇ましく立っているホウ徳の画だった。

「殿・・・・」

彼にとって殿は曹操ただ一人だった。

殿にだけは・・・こんな姿を見られたくない――

于禁は短刀を取り出すとそのまま自害した。


その時に飛び散った彼の血が壁画の于禁の画にかかったという。

それはこびりついてまったく取れなかったといわれてる。


――殿・・・血で汚すことをお許し下さい――



おわり