妖艶なるモノ   





「曹操を逃がすなっ!」

宛城は燃え盛る炎に包まれている。

全てを消し去る業火――

生命も・・・

罪も・・・

心・・・さえも――

張繍(ちょうしゅう)はそう、ふと、思った。

その反面、綺麗だと、思った。

「張繍さま」

炎の中で叔父の妻であった鄒(すう)氏が揺らめいていた。

火が綺麗だと思ったのは、彼女がそこにいたから・・・だと、張繍は悟った。

鄒(すう)氏はその整った顔に妖艶な笑みをこぼしている。

張繍はうなずくと、近くにいた兵士に彼女を送らせた。

「・・・怖い女性だ・・・」

その場からいなくなったのを確認してから、張繍はつぶやいてみたものの、

彼自身、密かに彼女に対して、恋心を抱いているのを思い出す。

苦笑いをこぼす。

恋・・・か――

冷静に考えれば、その気持ちは恋ではないように感じる。

ただ・・・欲しい・・・だけ・・・。

張繍は鄒(すう)氏を抱いたことがある。

まだ、叔父の張済が生きていた頃のこと。

間違いなく・・・溺れた。

一夜の過ち。彼女から誘ってきたのだが、それだけで・・・虜になった。

あの妖艶な笑みと身体・・・背筋がゾッとするほどの魅力さだった。

抱いてみて初めて、その恐ろしさに気がついた。

男を虜にする女だった。


「張繍、裏切ったかっ!」

曹操が炎の中、叫んだ。

そして・・・逃げている。

「逃がすな」

張繍が叫ぶ。

謀臣、カクの意見で曹操に降った。袁紹側についていたが、どちらでも良かった。

ただ、袁紹よりも曹操の方が器の大きさからいって、勝っていると張繍はみていた。

カクがどこまで考えているのか、計り知れなかったが、彼とは大体意見が合う。

裏切るつもりも、本気で殺そうとも、思ってなかった。

でも、夜襲をかけた。曹操に自分の力を誇示するというのも、あったが、

本当のところ、曹操が鄒(すう)氏を抱いたのが許せなかっただけだった。

恐ろしい女だと分かっていても・・・。

張済の妻だと知っていても、忘れることが出来なかった。

叔父が死んで、やっと手に入れることが出来たモノ。

心の一部では、曹操も溺れる――と思っていた。

鄒(すう)氏を目の前にして溺れない男はいない。

ましてや、相手は部類の女好きなのだから・・・。

結局、曹操には逃げられてしまった。



夜襲の騒ぎが収まると張繍は鄒(すう)氏の元へと向かった。

本営の中に彼女はいた。

「張繍さま・・・」

張繍の姿を捉えると鄒(すう)氏は寝台の上で悩ましい声を響かせ、耳元でささやく。

思わず、震えがくるほどの快感が張繍の身体を駆け巡った。

この快感を得るために・・・叔父に手をかけた。

『叔父上・・・』

張繍はそっとつぶやいた。



「繍、わしを殺すか?」

叔父である張済は単刀直入に切り出した。

甥の張繍と妻の鄒(すう)氏との密会を知ったのは最近。

いや、鄒(すう)氏の美貌に大抵の男は捕らわれる。

それはあがいてもどうしようもないことだった。

密会のことも、全然、苦にはならなかった。

もう、二人の仲は冷め切っていた。形だけの妻。

張済も彼女の魅力に溺れた一人だった。始めの頃はそれで、よかった。

だが、徐々に自分をコントロールできる様になってから、溺れなくなった。

代わりに、甥の張繍が溺れ始めた。よりによって。

「叔父上、それは一体どういう、、、、?」

張繍は平静を装ったつもりだったが、顔に出ていたらしく、張済はフッと笑みを浮かべた。

「妻に頼まれたのであろう?」

「・・・・・・・」

張繍は何も言わない。言わなくても張済には全て筒抜けだった。

いずれ、妻である鄒(すう)氏に殺される。

確信とも、いえる予感が張済にはあった。

溺れない男はいらない。

あの女が力を持つときは男が溺れている時だから。

操りやすい男――それが今の張繍であり、邪魔な男が、夫の張済であった。

「殺れ。そして、あの女を奪うがいい」

――あの女は危険ぞ――

張繍は腰の剣を抜き、横に払った。

――もう、後戻りは出来ぬぞ、繍・・・――

張済はそう、言い残した。その言葉が張繍の耳に残った。



――抜け出したい――

そう思った。日を追うごとに強くなる願い。

それでも身体は鄒(すう)氏を求めて続けていた。

堕ちる、と思った。

底なし沼で水面ギリギリの所でもがいているよう・・・。

息もできない。安らぎもない。そんな場所に張繍は立っていた。


そんな日が数日続いた。

張繍は劉表と手を結ぼうとしていた矢先、事件は起こった。

朝、張繍がいつものように目覚めると、隣にいた鄒(すう)氏が血を流していた。

すでに身体は冷え、血も乾ききっていた。

その顔には恐ろしい形相だけが残っていた。

「殿、失礼します」

カクが一礼して、室内に入ってきた。

入るなり、カクは鄒(すう)氏だった亡骸に一瞬だけ視線を落とした。

カクは以前から、鄒(すう)氏との情に溺れる主を見続けてきた。

そして、張繍の内に秘める願いさえも・・・・。

カクは軽く笑みを浮かべる。

「殿、お目覚めですか?」

その、謀臣の言葉に、張繍はカクの仕業だと、気付いた。

思ったほど、怒気はなかった。逆に感謝の気持ちの方が勝った。

底なし沼から拾い上げてくれた臣に・・・。

「久しぶりに目覚めがよい。苦労をかけたな・・・カク」

張繍は笑みをこぼした。清々しい。

「恐れ入ります。臣は殿をお助けするためにございますので。しかし・・・」

カクは言葉を切り、張繍の瞳を見据えている。

「・・・分かっている。どうせ、お前も同じ考えなのだろう?」

カクは何も言わずに主だけを見つめていた。

「曹操に降る。今度は偽りではない。しかし・・・許してくれるだろうか」

「・・・曹操ならば、問題ございません。袁紹とは器が違いましょう。それに・・・」

――災いの元凶はもう、いません――

「・・・そうだったな」

張繍は鄒(すう)氏の亡骸に目を落とすと、そのまま、カクと共に部屋を出て行った。

何故か、張繍には日差しが眩しく、新鮮に感じられた。

――あの女は危険ぞ――

張済の言葉が不意に張繍の脳裏に浮かんでは消えた。

のちに、張繍は曹操に帰順し、官渡の戦いにおいて、功を収めている。




おわり