乱世へ――




「いい眺めだな」

夏侯惇がつぶやくように言った。

その隣には曹操が立っている。

まだ、二人とも若い。

「元譲、いずれ世が乱れる・・・」

その言葉の意味を夏侯惇は多少なりとも悟った。

「孟徳兄、俺はその時がくるまで、力を蓄える」

夏侯惇は曹操のことを孟徳兄と呼んでいた。

曹操は夏侯惇にそう呼ばれることを嫌ではなかった。

「いつか・・・天下をとる――」

曹操はポツリと自分に言い聞かせるように口に出した。

夏侯惇はその、真っ直ぐな曹操の横顔を眺めていた。


「学の方は進んでいるのかな?」

夏侯惇は十四歳になり、塾に入った。いずれ、役に立つと思ったから。

その師が夏侯惇の屋敷に突然、訪れた。

「先生、今日は塾の日でしたか?」

夏侯惇は師を見るなり、そう言った。

師は身分に隔たりなく、万人に学を教えている。

そのため、師の塾に入る人は後を絶たない。

夏侯惇もその師の人柄に惹かれた一人だった。

もちろん、教え方が上手いというのもあるが、彼は自分でも驚くほど上達していった。

「いや、今日はお話をしにきたのだよ」

「お話・・・ですか?」

突然の師の訪問に少々夏侯惇は戸惑ったが、家の中に通した。



「先生、お話とは・・・?」

「そう、硬くならなくてもいいのだよ。ただの雑談なのだから」

師は緊張している夏侯惇にやさしく言葉を投げかけた。

「最近の上達ぶりには驚いていてね」

「私自身も驚いています。それも先生のお陰だと思っています」

夏侯惇は照れながら、笑みを浮かべた。

「私はただ、学を教えているだけで、感謝されるものではないよ」

師は静かに微笑んだ。

夏侯惇はその師の笑みが好きだった。広大な優しさに包まれていく様で好きだった。

「学は学。知識は所詮知識でしかない。経験には劣る、と私は思う」

師はそこまで言うと、出された湯を口に含んだ。

「先生はいつか、乱世になると・・・でも?」

夏侯惇の問いに師は静かにうなずいた。

「・・・・そう、遠くない日に――」

何故か師の顔が曇っていた。その顔に夏侯惇はいたたまれなくなった。

「では、そろそろお暇いたしましょう」

師はそう言うと立ち上がった。夏侯惇も一緒に立ち上がると

「先生、近くまで送ります」

夏侯惇と師はそろって、外に出た。



「おや〜これはこれは先生」

道の真ん中でいかにもという感じの無頼漢らしき男が二人、近づいてきた。

腰には剣を佩き、道をふさぐ。

右へ行こうとすると右へ。左へ行こうとすると左といった具合に。

「道を開けなさい」

師は怒る様子もなく、普段と変わらない口調でいう。

「相変わらず、繁盛しているねぇ〜先生の所は・・・」

男の一人がニヤニヤと言う。

「先生・・・この二人は?」

師と男二人の険悪な雰囲気に気付いた夏侯惇だったが、

二人の口調から、師の知り合いと感じた。

「私の元教え子だよ」

師は少し、悲しそうな表情をした。それでも笑顔を浮かべていた。

「あの時はお世話になったけど・・・残念・・・今日は仕事で会いに来たんだ」

男の手が鞘にかけられた。一瞬の出来事だったが、夏侯惇は見逃さなかった。

「仕事・・・そうか・・・」

師は全て知っているように、力なく答えた。

男の剣が横に振り切られた。

ブォッン

「先生っ!危ない」

夏侯惇は師を押し飛ばし、その男の一太刀を交わした。

その反動で、夏侯惇と師は地面に転がってしまった。

「なかなか、いい反応だな」

「学よりも腕を磨いたらどうだ?この先生じゃ、いつになっても身につかないぜ」

男二人は思いっきり声を上げて笑った。

地面についた師の拳が微かに震えている。

「せ・・・先生」

「手出しはいけない・・・お前が捕まってしまうよ・・・」

「でも、先生っ!!」

――殺されてしまう――

そんな言葉を飲み込んだ。師は分かっていたのではないか。

誰かに命を狙われていることを・・・。

男たちと何があったのかは知らない。そんなのは自分には関係ない。

でも、師が侮辱され、なおかつ、死の危険があるのに・・・

自分は黙って見ているだけなのか。

夏侯惇は唇を噛みしめた。少し鉄の味が口の中に広がった。

「おや〜抵抗しないのか?じゃ、そのまま消えてくれよ。先生さえ消えたら、

俺ら一生遊んで暮らせるんだぜ」

男の剣が師の頭上に迫る。

「うわぁぁぁぁぁぁぁ」

夏侯惇は無意識のうちに剣を握っていた。師の頭上に振り下ろされる剣が

夏侯惇にはスローモーションのように見えた。

男二人は一瞬、夏侯惇に驚いたが、そのまま、一刀両断された。

男の返り血を浴び、その形相は修羅のごとく、恐ろしい顔だった。

「おぉ・・・何ということを・・・」

師は無残な死体に涙を流した。

「・・・先生・・・すみません・・・俺――」

師は首を振る。

「お前のせいではない。私が愚かな考えだった。すまなかったね」

辺りは異変を聞きつけた人たちでざわめき出した。

夏侯惇はその場から逃げ出そうとした。

「惇。生き延びて・・・くれ。そして・・・ありがとう」

「・・・先生も・・・お元気で――」

二人は軽く笑みを浮かべた。



――孟徳兄・・・――

県尉の目をくらませるため、山にはいる。

今や、殺人犯である。町の真ん中で人を斬ったのだから、当然だったが、

斬った相手側の圧力もあったのだろう。

師を狙ったあの二人の男はただ、雇われただけと見ていい。

師は無事だろうか。

それだけが心残りだった。当分、師を狙うことはしないだろう。

それでも、心配だった。

自分はこうして、生きていける。山に入ることなど、苦でもない。

――まだ、死ねない――

少し眠った。神経過敏になっているせいか、眠れなかった。

いつまで続くのか、分からなかった。

――孟徳兄が兵を挙げたら、俺はきっとはせ参じます――

まだ・・・死ねなかった。乱世さえ、始まっていない。

――わしは天下をとる――

その孟徳兄の夢を共に歩むまでは――

死ねなかった。

まだ、闇が深い。

夏侯惇は立ち上がって、再び、歩き始めた。


それから、数ヵ月後、夏侯惇は曹操たちが手を回したお陰で無罪放免になったという。


おわり