我が君・・・








「この尻軽女がっ!」

袁紹は甄姫の顔を見るなり、そう吐き捨てた。

甄姫は袁紹の次男、袁熙の妻だった。

官渡の戦いにおいて、ギョウに一番乗りした曹丕に見初められた。

今は曹丕の妻だった。

「・・・これも・・・世の常。お覚悟を――」

甄姫は静かに武器を構えると、かつての義父を見つめた。

その顔には迷いはなかった。



数日前――

曹操は諸将を呼び集め、会議を開いた。

官渡での戦いの後、その場の勢いで曹操軍は

北へ逃げ延びた袁紹軍に引導を渡すために北上し、冀州に入った。

そこで、袁紹軍とぶつかったのだった。

「この戦で袁家の血筋を絶つ。何か良い案はあるか?」

その会議には夏侯惇を始め、司馬懿、曹丕、張コウといった顔ぶれが並んでいた。

「殿、袁紹の長男、袁譚と三男の袁尚との仲違いはいかがかと」

司馬懿が口を開く。

曹操はうむ、と一言うなずくと勢いで席を立つ。

「まずは、袁紹の次男、袁熙の首を取る」

袁譚と袁尚の二人は後継者争いで仲が悪い。

その間を取り持っているのが次男の袁熙だった。

袁熙さえ、いなくなれば、必然的に残り兄弟の溝はますます広がるはずだった。

父である袁紹は三男の袁尚をバカみたいに可愛がっている。

長子である袁譚にはそれが面白くないはず。

すでに確執は確実に大きくなっている。

袁紹もそれに気付かないわけではあるまいが、修復はまず、無理だろう。

曹操はそのスキを逃さなかった。

間者の報告だと、袁紹は官渡の戦いで大敗したのがショックだったらしく、

この戦でムキになっている。全兵力を注ぎ込んでいた。

「この、袁熙の首を取ろうという者はいないか?」

その言葉に曹操は一同を見渡した。


「――父上」

曹丕が手を上げた。一斉に曹丕に視線が注がれる。

――出来るのか、お前に――

曹操は口から出そうになる言葉を飲み込んだ。

息子の腕は官渡で大体のことは把握しているつもりだったが、

もっと、見てみたいと思った。

それで命を落とすなら、その程度・・・そう思った。

「丕よ、確実に取れ・・・」

曹操は曹丕と他の諸将共々、兵の分配を一気に言うだけいうと、会議は終わった。

部屋には曹操と息子の曹丕だけが残っていた。

そこへ甄姫が入ってきた。

「殿、私も・・・お供したいのですが・・・」

その言葉に曹操は甄姫を見た。曹丕は無表情のままだった。

「理由は?」

曹操は聞き返した。

「袁家の最後を・・・この眼で・・・」

甄姫の眼は真剣だった。曹操はその真剣さに負けた。

隣にいる曹丕に顔を向けると

「・・・丕よ。そばにいてやれ」

曹操はそう、言うと部屋を出て行った。



部屋には二人だけになった。

「甄姫・・・無理はするな」

そうはいっても曹丕の表情は変わらなかった。

「曹丕様、ありがとうございます。あの時の約束を覚えていてくれたのですね」

甄姫は笑みを曹丕に向けて、静かにそう、言った。

曹丕は微かに表情を柔らかくした。



――約束――

以前、甄姫は曹丕に言ったことがある。

――袁熙様を討ってください。彼方の手で――

甄姫がどんな想いでそう、告げたのかは分からない。

ただ、その想いに答えてやりたかった。

元袁熙の妻だった女。

今は曹丕の妻だった。

「戦中は私のそばを離れるな、甄姫」

「・・・はい」

ふと、曹丕が笑みを浮かべたように甄姫は見えた。




「甄姫っ、よくも我が妻でありながら・・・・・許せんっ!」

袁熙は甄姫の姿を捉えるとまっすぐに向かってきた。

その顔は怒りでいっぱいだった。

甄姫は眼を閉じると彼に対する想いをはせた。

「袁熙さま、もはや私は貴方の妻ではありませんわ」

――もう、貴方とは終わったのです――

甄姫の言葉に袁熙はさらに怒りを増した。

「女の分際で、戦場に出おってっ! この俺が散らしてくれるっ!」

袁熙はすばやく、槍を繰り出す。

それを甄姫は距離を置いて、よける。

「お覚悟をっ!」

甄姫が武器を構え、握り締めた。

袁熙の槍が甄姫に向かって振り下ろされる。

ザジュッ

「ぐぁっ」

袁熙の苦痛の顔を見つめながら、甄姫は眼をとじた。

――袁熙さま――

甄姫はその場に崩れた元夫に目を落とした。

その背後には彼を斬った曹丕が立っていた。

「怪我はないか?」

「・・・ありませんわ」

甄姫は笑みをこぼしながら、曹丕に答えた。


「全軍、押し込めっ!!」

曹操のもとに、曹丕が袁熙を。

張コウ、夏侯惇が袁譚、袁尚を倒したという報告がはいった。

あとは袁紹だけだった。曹操は全軍に突撃命令を出した。

「袁紹、これで終わりにしてやる」

曹操も自ら軍を率いて戦場へ向かった。


「お・・・おのれ、曹操め、よくも尚を――」

袁紹は怒りに身を震わせていた。息子を失った悲しみが憎悪へと変わる。

目前に曹操軍が迫っている。

袁紹は無意識の内に拳に力が入る。

その曹操軍の中に知り顔がいた。

甄姫だった。

「息子の代わりに滅してくれるっ!!」

「お命、頂戴しますわ」

袁紹と甄姫は互いに武器を構えた。

――すべては・・・曹丕さまのため・・・あの時から私は袁家を捨てたのですわ――

「私は曹丕様の妻、甄姫。袁家の最後を見届けに参りましたわ」

その瞳に迷いはなかった。


――すべては・・・我が君の為に――





おわり