元譲と孟徳と雲長










関羽が逃げ出した。

正確には兄弟の元へ去って行った――。

一時、曹操に追い詰められた関羽が張遼の説得によって、魏の客将として漢に降った。

その時出した条件の一つ。劉備の居場所が分かり次第、出て行くというもの。

曹操はそれを快く承知したが、彼の胸の内には関羽を落として見せるという、自身があった。

しかし・・・無駄だった。

関羽は曹操にお別れも言えないまま、姐上の乗る馬車とともに、馬を走らせていた。


「孟徳、俺は関羽を追う」

夏侯惇は寄り添う曹操に声を荒げて言った。

「ならぬ」

曹操はそんな夏侯惇に静かに一言、そう言った。

「何故だ? 奴を生かせておけば・・・必ず災いになる!!」

夏侯惇は半ば、怒りにも似た口調で曹操に言い寄った。

「わしには関羽を引き止めることは出来ぬ。約束は違えることは出来ぬ」

曹操は関羽が去った遠い彼方を眺めながら、淋しそうにつぶやいた。

「だが、俺は奴を追う。それがお前の意思に反してもだっ!」

夏侯惇は曹操の言葉を無視して、馬に飛び乗った。

「元譲、これを持っていけ」

夏侯惇の性格を熟知している曹操はそれ以上何も言わなかった。

だが、背を向けた夏侯惇に曹操は何かを手渡した。

それは、関所の通行書だった。これがなければ、関所は通れない。

関羽のことだ。関所の武将を斬ってでも通りかねない。

「・・・孟徳、」

夏侯惇はその通行書を見たとき、怒りがさらに増したが、

曹操の顔をじっと見つめていると、夏侯惇はフッと笑みをこぼすと

それを懐にいれて、そのまま疾走した。

「元譲・・・すまぬな」

曹操は夏侯惇の姿を見えなくなるまで見送った。


部屋に戻った曹操は入るなり、部屋の中の物に当り散らした。

部屋の中はぐちゃぐちゃになった。

――そんなにあの漢がいいのか――

唯一ライバルと認めた男・・・地位も土地も何もないのに、

力でねじ伏せることも出来るのに、何故、あの関羽はあの男のそばにいるのか。

考えるれば考えるほど、劉備に嫉妬する。

止めようがないこの想いが怒りとなってどうしようもなかった。

ない物ねだり。

曹操の下にもいい人材がいる。しかし、曹操は関羽が欲しかった。

曹操は一通り暴れると、寝台の上に寝転んだ。


――孟徳――

夏侯惇は馬を走らせる。懐には通行書。

関羽の首・・・取る――

そう、意気込んできたのはいいが、本当のところ、そんな気はなかった。

関羽と本気勝負したところで、決着がつかないことも承知している。

今はそんなことをしている暇はない。

それでも、夏侯惇が走るのは、関羽に劣っていないという証が欲しかった。

曹操と他の者よりも共にいる時間が長い夏侯惇にとって、

関羽の自慢話が曹操の口から出るのがすごく腹が立った。

夏侯惇と関羽を比較されている気がして、嫌だった。

奴に嫉妬していると知ってからもそれは変わらなかった。

夏侯惇も関羽の義と武勇には惚れるものがある。

だが、それゆえに曹操の褒め方は尋常ではなかった。

もし、このまま・・・こんな関係が続いていたら、関羽に取って代わられるかもしれない。

そんな不安さえ、夏侯惇の中に芽生えた。

今まで、夏侯惇が曹操のそばにいた。

曹操のことは何でもわかっているつもりだった。

この場所だけは譲れないと思った。

一番でなくてもいい。曹操にとって夏侯惇が大事な存在だと認めてくれればいい。

それに、関羽だけには負けたくないと思っていた。

――孟徳・・・・――


その頃、関羽は関所を通ることが出来なかった。無理やりでも通ろうとした矢先、

夏侯惇がすごい形相で疾走してきた。

それを見たとき、思わず、関羽は武器を構えた。

「一体、何のようだ?夏侯惇」

夏侯惇は剣先を関羽に向けた。

「連れ戻しに来たのだが・・・貴様を倒す」

――本当は連れ戻したくなかった――

このまま何処か遠くへ行って欲しかった。

「曹操の命令か?」

「・・・違う。だが、お前をこのまま、行かせるわけにはいかない。

俺のすることは全て孟徳の為だ!」

夏侯惇は馬を走らせる。関羽と夏侯惇の武器が交差し、火花が散った。

――何やってんだ。俺は――

夏侯惇の胸の中を疑問が過ぎる。

――孟徳の命令に背くのか?――

自問自答しながら夏侯惇は関羽とぶつかり合っている。

時には火花を散らし、時には攻撃をかわす。

勝負がつかない状態が永遠と続いた。

――元譲・・・これをもって行け――

ふと、曹操の言葉がよみがえる。

懐に入れた通行書。

それを思い出したとき、夏侯惇は笑みをこぼした。

「止めだ」

不意に、夏侯惇は戦うことをやめた。

「何のまねだ?」

関羽がいぶかしげに夏侯惇の様子をうかがっている。

すでに答えは出ていた。

あの通行書を渡された時から・・・。

「礼なら・・・孟徳にいえ」

夏侯惇はそう言うと、懐から通行書を関羽に投げた。

関羽は何が起こったのか理解出来なかったが、

「今度会うときは本気だすがいい」

と、言った。

夏侯惇は関羽に背をむけ、振り返らずに、その場を立ち去っていった。

――孟徳・・・俺を・・・試したな――

夏侯惇は馬を疾走させながら、笑みをこぼした。




許都に戻ると、曹操が出迎えてくれた。

二人はそのまま、曹操の部屋へと向かう。

「元譲――関羽はいったのか?」

「あぁ」

曹操は夏侯惇にご苦労だったな。と肩をポンと叩くと、その手に酒瓶を握らせた。

「元譲、関羽は出て行ってしまったが、わしにはお前がいる。それで十分だ・・・」

その夜、二人は遅くまで酒を飲み交わした。



おわり