言霊     






「仲達」

君主である曹丕が、隣に眠る男の名を呼ぶ。

軍師であり、教育係であり、特別な存在でもある男、司馬懿仲達。

その心は深遠なる闇。

深く、闇の底に黒い野望を秘める危険な男でもあった。

曹丕は父である曹操から、言われ続けていた。


――この男は危険ぞ。だが、それはそれで魅力的でもある――


今は亡き、父からの遺言とも思える言葉。

確かに、それはわかる。

曹丕自身の中にも眠る、深遠なる闇。

互いにそれはそれで、惹かれあう。

立場や境遇は違えど、互いを熟知している。

分かってしまう。

相手の言うことが。

司馬懿の言葉の真意と闇が・・・だ。

曹丕はその男の顔を眺めると、クスッと自嘲した。

「子桓・・・さま?」

まどろむ意識の中で、司馬懿は目が覚めた。

自分の顔を覗き込む、君主の顔が見えた。

「起こしてしまったようだな、すまなかったな」

曹丕はそういって、司馬懿の黒く長い髪を手のひらでもてあそぶ。

「いえ、それよりも眠れないのでございますか?」

臣として、答える。

それもいつものこと。

「仲達」

まっすぐに曹丕は司馬懿を見つめる。

答えるように、司馬懿も曹丕の瞳をその目に焼き付けていた。

「私を抱け。お前の心の闇を感じたい・・・」

二人の情事は今に始まったことではない。

そのお心の真意は計り知れないが、

毎夜のごとく、まるで臣に課せられた仕事であるように行われていた。

「ご命令とあらば・・・」

司馬懿はいつもと同じように、曹丕を抱いた。

外は二人の心の闇と同じように夜の帳が深く広がっていた。




ある日のこと、曹丕は合肥に軍を送ることを決めた。

呉を打ち滅ぼすためだという。

曹丕自身が軍を率い、司馬懿がその補佐を勤めた。

司馬懿は時期が悪いと思った。

まだ、その時ではない。

彼自身には戦の勝敗さえも見えていない。

合肥に駐屯中の張遼や楽進、李典と合流したその日、

司馬懿は曹丕のいる営舎に足を運んだ。

中に入ると、曹丕はすでに司馬懿が来ることを予想していたように、人払いをさせてあった。

「曹丕様、何故に急がれるのでしょうか?」

曹丕は白湯を口に運ぶ。

「・・・近くに寄れ、仲達」

そう命令が下されれば、司馬懿は無視などできず、一礼をして、そばに歩み寄った。

「私には時間がない・・・」

曹丕は不意にそんな言葉をはいた。

司馬懿は言葉の意味が理解できなかった。

頭の奥底で何かが危険を察知しているように、ズキズキと頭痛が起こっているだけ。

「叡は利発な子だ。だが、天下を取る器ではなかろう、お前も気づいておろう?」

司馬懿は曹丕の言葉に耳を傾けるだけ。

その真意を考えながら。

曹丕は司馬懿の頭巾の垂れ下がっている布をつかむと司馬懿の顔を自分の方に向けさせる。

「お前の好きにさせてやろう、仲達。私がこの世界から消えた後ならば・・・な」

「そ・・・子桓様・・・それは・・・」

その両目に映るは一つの狂気。

深い、深遠なる闇の狂気。

司馬懿はただ、その目の離せない狂気に魅入られていた。

「答えずともよい。それがお前の望みであろう」

曹丕は白湯を口に含み、笑みをこぼした。

司馬懿の唇に暖かい感触が触れた。

開かれた唇の間から生暖かい液体が流し込まれる。

ゴクリ

曹丕から司馬懿へと流れた白湯は彼の緊張した喉をかすかに潤した。

「私とお前の間で交わす盟約ぞ・・・」

司馬懿はまだ、喉の奥に残る白湯と唇の感触が残っていた。




営舎を出ると、司馬懿は身体が高揚しているのに気がついた。

まだ、心臓がバクバクと波打っている。

初めてみた、狂気じみた曹丕。

自分にもそういう一面があるのかと思うと、怖いよりも歓喜で身が震える。

心の闇を一つも狂うことなく、あそこまで知られたのは曹丕が初めてだった。

亡き曹操にもあそこまで知られることはなく、

やはり、どこか、似ているのかと思うと無意識に笑みがこぼれる。

死なせたくない。

そんな想いを抱いている。

楽しみがなくなってしまう。

もっと、一緒にいたいとも、思う。

それでも、彼が授けた盟約は、司馬懿の脳裏を静かに駆け巡っていた。





その日から数ヵ月後、曹丕は病を発し、床に伏せっていた。

司馬懿は毎日、曹丕に呼び出されていた。

「お体の具合はいかがですか」

毎日、交わす最初の言葉。

「悪くはない」

曹丕も同じように答える。

司馬懿は曹丕のそばに寄り、手を取る。

「あの時の盟約、覚えているか?」

「はい」

あれから、忘れることができなかった、言葉。

「そうか、ならばそれでよい」

曹丕は司馬懿の首の後ろに腕を回し、引き寄せた。

そして、耳元でボソボソと耳打ちをした。

「子桓さま!?」

驚愕な顔の司馬懿に曹丕は笑みを浮かべて、その唇に自分のそれを重ねる。

「闇の底で待っている・・・仲達」




辺りは日が落ち、司馬懿は途方にくれていた。

曹丕は短い生涯を閉じ、息子の叡を跡継ぎに立てた。

「何もかも、気づいていたとは・・・」

司馬懿はぼやくように言葉をつむぐ。

亡くなる寸前に耳打ちした言葉。

司馬懿にとって予想しなかった言葉だった。


『お前は危険な男だ。だが、魅力的だったがな・・・』


司馬懿はその言葉を思いだすと、笑みをこぼした。

「さて、曹叡様はいかほどの器量か、見定めてもらおうか・・・」

司馬懿は夕闇に溶けるように、ふははははと高笑いをこぼして、歩いていった。




――お前の好きにさせてやろう、仲達。私がこの世界から消えた後ならば・・・な――